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つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天下り来むものならなくに

これも一度読んだらすぐ覚えられそうな歌だ。もっともその当時は、紫式部のいうように、ガクのある歌がほめそやされた。つまり昔の歌の言葉などをさりげなく使って、

――あたしって、こういう古歌を知ってますのよ、オホン!

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という顔をするのが高等技術だとされていた。それから見れば、思ったままを歌にしたような和泉式部の歌は、「まだまだ」ということだったのだろう。しかし歌はガクではない。心にジンとしみてくることが第一ではないか。その証拠に、今読むと、ガクのある紫式部の歌はいっこうにおもしろくないのに、和泉のは、ずっと心に迫るのである。

男心をくすぐる「捨てられムード」な歌

それには、彼女の歌が捨てられムードであることが与(あずか)って大きい、と私は思う。たとえば、敦道親王とアツアツの最中でも、

「いつかは捨てられるのね、私って……」

とか、

「ひとりでは生きていられないわ」

というような悲しそうな歌ばかりが多いのだ。こんな歌をもらえば、男たるもの、一時も放っておけないゾと思うのはあたりまえではないか。

しかし、多分、彼女は、男と会っているときは、ガラリと変って、享楽的な娼婦型の女となって、とことん二人の生活を楽しんだに違いない、と私は思う。会ったときも歌と同じく、しめっぽく、陰気で、愚痴っぽくては、男の方が嫌になってしまう。きっとさんざん楽しんだあげく、別れた後では泣きの涙の歌を贈って、男をギョッとさせ、

――ああ、彼女って、こんな淋しがりやだったのか……。

とますますいとしさをつのらせる、というのが彼女のテクニックではなかったか。

女性を敵に回さない「オリコウな女性」

紫式部オバサマの判定とは別の意味での、彼女の高等技術はまさにここにあったのである。そういえば、彼女は、大げんかして別れた先夫道貞にも、あとで、みれんたっぷりの歌を贈っているあたり、ちゃんとアフターサービスがついていて誰からも憎まれないように用意している感じである。同性たちにも評判がいいのは、こうした配慮の周到さによるものではないか。