ただ、規模としてはいささか小さなものにとどまり、阪急の後塵を拝する形になった。この頃は、まだ甲子園という名前も生まれていない。のちに甲子園球場ができる一帯は、武庫川支流の枝川からさらに申川が分岐するような、そんな場所だった。
大正時代に入ると、氾濫が悩みのタネになっていた武庫川の抜本的な改修計画が浮上する。そのひとつが、枝川・申川の埋立だった。埋立事業は1923年までに完成するのだが、その廃川跡の払い下げを受けたのが阪神だ。
埋め立てられた川の跡地にできたものが…
埋立完了前年の1922年、阪神は兵庫県から22万4000坪の廃川跡を410万円で譲渡される。そして、この広大な廃川跡の不毛の地に生まれたのが、甲子園球場だったのだ。
ちょうどこの時期、当時の中等野球は鳴尾球場で行われていた。鳴尾球場は、枝川が海に注ぐその海沿いにあった野球場。実のところは、鳴尾競馬場(関西競馬場)という競馬場があって、その内馬場に設けられた野球場というのが正しい。
中等野球は箕面有馬電気軌道(現在の阪急)が沿線の豊中に設けた豊中球場でスタートしたが、早々に手狭になって鳴尾球場に舞台を移す。鳴尾球場は、馬券禁止によって困窮していた鳴尾競馬場の内馬場を阪神電車が借り受ける形で生まれたものだ。野球場だけでなく、陸上競技場やプールなども備えた総合スポーツ施設だった。
中等野球の人気沸騰に伴って、鳴尾球場では2面のグラウンドを設けて試合を開催。仮設のスタンドを設けるなどして対応している。
しかし、それでも野球人気の高まりには追いつかず、さてはてどうしたものか、となったところで、ちょうど枝川・申川の廃川跡の広大な開発地域が現れた。そこに巨大な阪神甲子園球場ができたのは、必然の帰結といっていい。