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かねてから野球への関心が高かった阪神の三崎省三専務と、球場建設を求めた中等野球の主催者・大阪朝日新聞社の思惑が一致したことも大きかったのだろう。
球場とともにできた102面のテニスコート。そして…
こうして1924年、甲子園一帯の大開発の第一歩として甲子園球場が開場する。そして、阪神はさらに周辺の開発も進めてゆく。甲子園ホテルや阪神甲子園パークといったレジャー施設を建設。最大で102面もあったという巨大なテニスコートも球場の南側に設けられている。
そして、廃川跡を中心にその周辺の土地も買い上げて住宅地も整えた。1928年、甲子園駅北側の1万坪の住宅地が50区画に分割されて分譲をスタート。坪単価はおおよそ50円程度だったという。
その後、着々と開発・分譲が進み、甲子園一帯には球場や駅を中心とした一大レジャーゾーン、そして一大住宅地が形成されたのである。だから、甲子園という町の本質が、聖地・甲子園球場を中心とした喧噪であることも事実だし、閑静な住宅街であることもまた、否定できない一側面なのだ。
甲子園駅前、バスのりばの脇。甲子園アルカスという商業施設の前には、立派な松林が見える。この松林は、かつてここに川が流れていた時代の面影を留める数少ない痕跡なのだという。
そして、甲子園筋という大通りに生まれ変わった枝川の廃川跡を歩けば、ららぽーと。この場所は、戦後に海沿いから移転して2003年まで営業を続けた阪神甲子園パークの跡地である。