甲子園駅前から甲子園筋を20分ほど歩くと、海に出る。甲子園浜という砂浜で、海沿いを散歩する人、スケボーに興じる人、また釣りをする人。傍らのグラウンドでは少年野球が行われていた。
静かな住宅地、そしてその向こうには海があってのどかな砂浜が広がる。ここまで歩いてくると、甲子園という町の本質は、実は駅前の聖地・甲子園球場ではなくてこちらのほうにあるのではないかとすら思えてくるほどだ。
少なくとも、一般に流布されているような、特攻服を着込んだタイガースファンが六甲おろしを歌って騒ぐという甲子園のイメージとは対極にあるといっていい。
この甲子園という町は、どのように生まれたのだろうか。
「甲子園」に球場も駅も住宅地もなかったころは何があった?
甲子園球場が開場したのは、1924年のことだ。甲子園駅も甲子園球場と同時に開業している。いまの高校野球、当時の中等野球が開催される日に限定して営業する臨時駅から歴史をスタートさせた。通年営業になったのは、1926年からである。
では、それ以前の甲子園はどのような町だったのか。
阪神電車が開業したのは、甲子園駅開業から約20年さかのぼる1905年。この頃、阪神電車の沿線には甲子園どころかほとんどめぼしい町がなかったという。せいぜい、西宮や尼崎の中心市街地があるくらい。沿線の通勤通学というよりは、阪神電車の名の通り、大阪と神戸の連絡がその役割の大半だった。
そのまま大阪・神戸連絡ばかりでは将来性に乏しいと考えたのだろう。1908年、阪神は『市外居住のすすめ』という本を出版している。都心部ではなく郊外に移住して阪神電車で通勤しましょう、というような内容でのちに阪急なども取り入れた郊外の住宅地開発、いわゆる“田園都市構想”に先鞭をつけた。
実際に阪神ではいくつかの場所で沿線開発を手がけている。私鉄の沿線開発というと阪急のイメージが強いが、ほぼ同時期に阪神とて沿線をベッドタウンとすべく動き出していたのだ。