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 学習院側にも差し迫った事情があったと考えられる。美人写真コンテストへの募集が始まっていた1907年11月1日、東朝は「學(学)習院の内訌(ないこう)(内輪もめ)」の見出しの記事を載せている。乃木大将が、それまで務めていた軍事参議官と兼務で学習院長に就任したのはこの年の1月。前年の1906(明治39)年には、それまでの華族女学校が学習院に併合されて女学部になっていた。

 記事は、乃木院長に加えて、文部省から岡田良平(文相も務めた文部官僚)が御用掛として学習院に来たことから、下田歌子部長は華族女学校時代のようなわがままができなくなり、「下田対岡田の暗闘」が展開されているとした。

女子教育の先駆者として知られる下田歌子。1899年に実践女学校(後の実践女子大学)を創設した(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 結局、下田歌子は11月26日に辞任。後任が松本だったが、東朝は12月15日付では乃木院長と松本部長の資質の違いを記事にした。「松本新部長は性質端厳(端正で威厳がある)だが、米国留学経験もあって万事積極的啓発主義を執る教育家。乃木院長のどちらかといえば消極的な訓練主義と相反する点が多い」と指摘。

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 年が明けた1908年1月11日付では「學習院第二の破綻」として、下田前部長の息のかかった女学部の教授、講師らが次々辞職していると伝えた。「かわいそうなのはただいまの部長、松本源太郎氏である」「松本部長も『この学校ほど難しいものはない』とある人に漏らしたようである」と書いている。

 さらに、この年4月11日には学習院初等科(小学校)に明治天皇の孫・迪宮(みちのみや)(のちの昭和天皇)が入学している。明治天皇はその教育のために乃木大将を学習院長に任命したともいわれる。要するに、乃木院長と松本部長にとっては、皇孫の教育と女子部の内部統制が目先の最優先課題で、末弘ヒロ子の問題に神経をつかって取り組める状態ではなかったと思われる。

同じ年に迪宮(のちの昭和天皇)が学習院初等部に入学した(東京朝日)

退学から半年余り…ヒロ子が結婚、侯爵夫人に

 退学から半年余り、1908年10月6日付読売の「本日」欄に「日本一美人の結婚」という短い記事が見られる。

 時事新報が催した美人写真の1等に当選して学習院女学部を追い出された末弘ヒロ子(直方氏令嬢)と野津元帥の令嗣(跡取り)、騎兵大尉・鎮之助氏との結婚は5日、勅許が得られたので本日、野津邸で華燭の典を挙げる。

 野津元帥とは、薩摩藩出身で日本陸軍草分けの1人の侯爵・野津道貫のことで、鎮之助についてこの記事には「騎兵大尉」とあるが、砲兵中尉が正しい。当時は華族の結婚には天皇の承諾が必要だった。