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 結婚年齢はいまよりずっと低く、女学校でも美人から順に縁談が持ち込まれ、先に退学していった。そうした中での美人写真は格好の「お見合い写真」として捉えられたのではないか。

 現に同年3月6日付時事新報に掲載された全国第2位の金田ケン子の父の談話には「娘の写真が発表されてから、諸方から結婚の申し込みが非常なもので、きょうまでに約200通も参りましたよ」とある。

 ヒロ子の場合、父は小倉に連れ戻そうとしていたとされ、結婚相手も決まっていたとすれば、退学は既定路線で、残るのはメンツだけ。騒動は時事新報が重大視したほどの大問題だったのかという疑問が湧いてくる。

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 この騒動の最中の3月には、後年女性活動家・平塚らいてうとなる平塚明子(はるこ)が、のちに作家となる森田草平と駆け落ち。大騒ぎになった揚げ句、栃木県・塩原温泉で発見された。「新しい女」の動きが芽生えつつあったが、ヒロ子の世界はそこから遠かった。

晩年のヒロ子の姿は…

 以後のヒロ子についてはほとんど情報がない。2011年に復刻された「華族畫(画)報」の「野津侯爵家」には鎮之助と並んで「令夫人ひろ子の方」の写真が載っている。また『日録20世紀 1909年』(1998年)には「その美貌と気品から社交界の花となり」と書かれているが、裏付ける資料は見当たらない。

「野津侯爵家」の一員として夫・鎮之助と並んで紹介されるヒロ子(『華族畫報』より)

 鎮之助は太平洋戦争中の1942年11月に死去。ヒロ子の長姉の孫であるジャズピアニスト・山下洋輔氏による『ドバラダ乱入帖』には、洋輔氏が小学校入学前に何度か見かけたという、終戦直後のヒロ子の晩年の姿が描き出されている。

 そのように一時代を騒がせた人とは知るよしもありません。曲がった腰と丸くなった背中、両手にリウマチを患っている老女です。かすかに足を引きずり、人目を避ける雰囲気がありました。子どもには近寄り難かったそれらの印象から、兄とひそかに「カイブツ」と呼んでいたのです。何という子どもの残酷さでしょうか。

 ヒロ子は洋輔氏の祖母である長姉を訪ねてくると、2人だけで長い時間を過ごし、出てくる時にハンカチで涙をぬぐっていることもあった。昔の思い出話をしていたのだろうか。

ヒロ子自身はどう思っていたのか

『昭和新修華族家系大成 下巻』(1984年)には「ひろ 昭和38(1963)年3月死去」と書かれている。満70歳に約2カ月足りなかった。

 気になるのは、第1等当選時の談話以外、どの資料を見ても、彼女の肉声が聞こえないことだ。義兄の思惑で写真を提出されたが、1等当選時の記事を読むと、まんざらでもなかったように見える。それが学習院女学部で問題となり、退学、結婚、すぐ侯爵夫人にという運命。それを彼女自身はどう思っていたのか。

 騒動や結婚当時はまだ10代半ば。さらに時代もいまとは違うとはいえ、家や学校、社会の古めかしいシステムに縛られ、固定観念の壁にぶつかって振り回された半生を、ただ黙って受け入れるだけだったのだろうか。できることなら聞いてみたい。

【参考文献】
▽ポーラ文化研究所編『幕末・明治 美人帖愛蔵版』(新人物往来社、2002年)
▽山下洋輔『ドバラダ乱入帖』(集英社、1993年)
▽安西篤子・小和田哲男・河合敦編著『ビジュアル日本史 ヒロイン1000人』(世界文化社、2011年)
▽松尾理也『大阪時事新報の研究』(創元社、2021年)
▽『華族畫報』(吉川弘文館、2011年)
▽『日録20世紀 1909年』(講談社、1998年)
▽霞会館諸家資料調査委員会編纂『昭和新修華族家系大成 下巻』(霞会館、1984年)