ヒロ子は学習院に退学届を提出
時事新報の記事は「3.ヒロ子愈々退学」「4.院長部長の態度に非難なきや」「5.寫眞募集は悪行か」「6.結論」と続く。次にまとめたように、学習院の姿勢を批判し、自社のキャンペーンの意義と正当性を延々と主張した。
〈旅順包囲の名将である乃木大将の過失を世上に明らかにするに忍びなく、これまで経過を記事化しなかったが、20日にヒロ子が退学届を提出。23日ごろから顛末を記事にする新聞も現れ、ヒロ子や時事新報を中傷する記事も。このうえ沈黙を続ければ、時事新報の行為は非、学習院の行為は是と世間に信じさせてしまう。
美人写真募集は単なる娯楽ではなく、わが国の実情を世界に周知させること。時事新報の見方からすれば、美人写真募集は悪行ではなく、その応募は悪徳ではない。いずれも天地に恥じない行為だ〉
その後も時事新報は、審査委員の「美人審査に就て」の連載を継続。3月31日付では23日の大毎「硯滴」を「忖度」の語源とされる「他人心あり我これを忖(はか)り度(はか)る」記事として引用。大勢の女子生徒が乃木大将とおぼしき人物の尻を押しているポンチ絵を添えた。 その後も「学習院の偏狭」という他紙の社説を全文引用するなどして、必死の自己防衛を続けた。
翌1909(明治42)年1月には読売、報知などが「世界審査の結果、ヒロ子が世界6位になった」と報じたが、それは写真の到着順だともいわれ、時事新報は確定報を流さず、はっきりしないまま終わった。
この頃、時事新報は新企画を多く取り入れていた
実際には、この「美人写真」は時事新報全社がまとまって盛り上げた企画ではなかったようだ。
「別冊新聞研究」で板倉卓造は、時事新報が明治40年代に美人コンテストを始めるなど、かなりセンセーショナルな面が見えたという指摘に対して「その通りです。われわれも論説室で見ていて、こんなひどいものを出すのは『時事新報』の威信に関わるんじゃないかと反対したくらいなんです。それはまあひどいものでしたよ。これは、その当時のアメリカの新聞がそうであったのを福澤捨次郎が見て、そのまま持ってきたものです」と述べている。
福澤捨次郎とは時事新報を創刊した福澤諭吉の次男で、アメリカ留学で土木工学を学び、見聞を広めて帰国。諭吉の死後、1896(明治29)年から時事新報の社長を務めた。「アメリカの新聞のセンスを身に付けていた」とされ、奇抜なアイデアで紙面に新企画を多く取り入れた。
たとえば、1901(明治34)年に東京・上野の不忍池を12時間周回する競走は「現代のスポーツイベントのさきがけといえるもの」=松尾理也『大阪時事新報の研究』(2021年)=だった。美人写真騒動と同時期に発生した、銭湯帰りの美人が殺害され、のちに容疑者のあだ名をとって「出歯亀事件」と呼ばれた事件でも、「真っ先に犯人を探知、もしくは逮捕した者に金時計を贈る」懸賞を出している。
しかし、1905(明治38)年に大阪時事を創刊したことなどをきっかけに、昭和に入ってから徐々に衰退。1936(昭和11)年、東京日日に合併されて消滅した。