『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』(村瀬秀信 著)集英社

 阪神の歴史を書いた本は多いが、本書によって、そのすべては書き換えられなければならないであろう。

 主人公は「岸一郎」という、よほどの阪神ファン以外は、名前すら知らないであろう監督だ。

 これまでの阪神史では岸については、「1955年、プロ野球の経験がまったくないのに、オーナーの気まぐれで60歳で監督となり、シーズンが始まって2か月で休養に追い込まれた」ということくらいしか記述がない。「休養」は事実上の解任で、岸は復帰することはなく、以後も球団に関わっていた形跡はない。

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 存命する当時の選手は吉田義男や小山正明くらいで、著者が取材すると、もちろんそういう監督がいたことは覚えてはいるが、ふたりとも好々爺だったということくらいしか覚えていない。出身地を訪ねても、岸を知る人は少ない。親類縁者もなかなか見つからない。没年も分からない。

 本書は、この「幻の監督」を追っていく過程を描いていく。ページをめくっていくと、少しずつ、岸がどんな人物だったのかが分かってくる。重要人物を探し当て、話を聞けたときのカタルシスは、ミステリーを読んでいるような感覚になる。

「岸一郎とはどういう人物なのか」が最大の謎なのだが、そもそも、そんなプロ野球経験ゼロの老人を、なぜタイガースは監督として迎えたのかも謎だ。

 この人事を決めたのは球団オーナーだった。一説には、岸が「タイガース再建論」を書いた手紙を球団に送り、それを読んだオーナーが感激して監督就任を依頼したという。

 こんな話、普通ではありえない。実際、タイガース以外には、ない。だが阪神の歴史には、こういう冗談みたいなエピソードが無数にある。

 さらに、33試合での途中解任も、阪神のお家騒動の歴史のなかでは、あまりにも「よくある話」である。著者の村瀬秀信氏は1975年生まれなので、岸の監督時代には生まれていない。タイガースの熱心なファンでもなさそうだ。そういう外部の視線を持つからこそ、この本は書けたのだろう。熱心な阪神ファンは、阪神の「異常さ」にマヒしているので、こういう不可思議な人物を、見過ごしてしまうのだ。

 取材していくにつれて、「幻の監督」「謎の監督」である岸が、元祖「嫌われた監督」であることが分かってくる。

 岸はたしかにプロ野球経験はゼロだが、そもそも岸が若い頃はプロ野球そのものがなかった。実は大学野球、社会人野球では名選手だったことも分かり、この老監督のイメージが一新され、悲劇のヒーローになりかける。だが、さらに取材をしていくうちに、別の一面も明らかになっていく。

 この謎の老監督の真実の姿が明らかになったとき、阪神の「お家騒動」史観までもが一新されるという、驚愕の書である。

むらせひでのぶ/1975年生まれ。ノンフィクション作家。神奈川県茅ヶ崎市出身。2000年よりライターとしてスポーツ、カルチャー、食などをテーマに雑誌、ウェブで幅広く執筆。文春オンライン上で「文春野球コラム ペナントレース」を主宰。著書に『ドラフト最下位』、「気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている」シリーズなど。
 

なかがわゆうすけ/1960年生まれ、作家・編集者。『プロ野球「経営」全史』『阪神タイガース 1965―1978』など著書多数。