センスと文化資本
センスの良し悪しは、しばしば、小さいときからの積み重ね、「文化資本」に左右されると思われています。それは育ちの良さに結びつけられ、身も蓋もなく言えば、もともとお金持ちで、いろんなものを鑑賞できる環境にあったとか、経済的格差の話にもなります。
しかし、文化資本はあとから育成することが可能だと僕は思います。この本では、文化資本を人生の途中から形成することを目標とする、と言い換えてもいいかもしれません。いや、それはちょっと不正確なので、もう少し説明します。
文化資本があるとは、たくさんのものに触れ、いろいろなものを食べ、つまり量をこなしているということ。ビッグデータを蓄積しているわけです。量をこなしているから、自然と判断力が身についている。さらに言えばそれは、AIのプログラムに、ネット上のものすごい量の文章や画像を「食わせる」ことで、それをもとにして「生成」ができるというのに似ています。
量をベースにして判断力が出てくるわけですが、僕の考えでは、ある程度、判断力の原理を先に考えてしまうこともできると思います。
昔から量を積み重ねている人に対して、途中から物量作戦で勝とうとしても無理です。ですが、量を積み重ねるなかで得られる判断力のポイントを学び、そこから再出発して、量を積み重ねていくことはできる。民主的な教育というのはそういうことではないでしょうか。
多くの人は、生まれ育つ過程で、何か特定の、少ないものに固着して視野が狭くなる——と言うと言葉が悪いですが、あまり他のものに興味を広げないで、ある範囲のなかで満足するようになります。それに対して、もっと興味を広げてみましょう、とよく言われる。この本にしてもその一種です。
ですが、あまり興味を広げたくないという気持ちにも、正当な理由があると思います。
人間とは「余っている」動物である
人間は、他の動物種よりも自由の余地が大きく、いろいろなものに関心を向け、欲望を流動的に変化させることができる存在です。
自由の余地が大きいために、人間は、(1) 関心の範囲を「ある狭さ」に限定しないと、不安定になってしまう。過剰に多くのことが気になってしまうからです。(2) その一方で、未知のものに触れてみたいという気持ちは誰にでもある。それもまた、人間の自由ゆえです。
いわば、人間とは「認知が余っている」動物で、余っているからいろいろ見てみたくなるけれど、自分を制限しないと落ち着かない、というジレンマを生きている。僕はそんなふうに人間を捉えています(なお、この説明は、フロイト以来の「精神分析」という理論にもとづくもので、それに含まれる生物学的な部分を強調しています)。
だから、新しい分野にチャレンジする気持ちがなかなか湧かないとしても自然だし、新しいことが急にやりたくなったとしても、それまた自然。そういう二重性がある。
文化資本を積み重ねてきた場合では、いろんなことに興味を持つことによる不安定に慣れて、平気になっている、という面もあるのでしょう。