ここで、注意深い方は、「おや、違う話をまぜこぜにしてないか?」と思うかもしれません。
駅に迷わず行けるのは「慣れ」でしょう。「習慣」ですね。では、言葉の意味がわかるのもそうなのか。「りんご→この果物」という結びつけの習慣化なのか。その面は確実にあると思いますが、言語能力はもっと複雑なものだという学説もあります。数学の能力はどうでしょう。基本的な計算や図形の把握は、先天的にできるように思われます。
先ほどの例では、あとからの学習=習慣と、先天的なものが混ざっています。
じゃあ、ダメな説明じゃないかと思うかもしれませんが、僕が思うに、むしろそれがポイントなんです。直観という概念は古くから使われてきましたが、その意味には振れ幅があります。現在でも、直観をどう定義するかで、学問において最終的な一致はないと見受けられます。
その背後にどんなプロセスがあるかは脇に置いて、「深く考えずにわかること」を広く意味するもの、として直観を捉えることにします。
生活は、自然な動きの連続です。深く考えずともそれなりにやれている。誰だってそうです。さまざまな障害を持っている場合もありますが、それもなんとかカバーして生活している。
芸術や、難しい仕事に「パッとわかる」ことを求められると、そんなことできるか! という声が上がると思うのですが、日常の大まかな流れとしては、誰もが直観的に動いている。これを再確認した上で、そこから芸術などの話につなげていきたいのです。
「わかる」というのを、「判断、判断力」と言うことにしましょう。センスとは、「直観的な判断力」です。あるいは「理解」でもいいでしょうし、「分別」や「識別」とも言えますが、判断力という言い方を代表者にします(これは、カントの『判断力批判』という著作を念頭に置いています)。
ところで、服のセンスが良くても音楽選びのセンスはいまいちだ、などと言われることがあります。これまた、センスのトゲの話ですね。「あの人、服はカッコいいのに音楽のセンスはなあ」とか。「あるものについてセンスが良ければ、他のことでもセンスが良くていいはずなのに……」という期待があるのかもしれません。なにか「すべてに共通するような判断力」を持っている人、というふうに、総合的に褒めるときにセンスがいいと言われることがあります。すなわち、センス:直観的で総合的な判断力、というわけです。
この本は「センスが良くなる本」だと言ったわけですが、それはまさに、総合的にセンスを広げていくことを目標にしています。音楽、ファッション、インテリア、美術、文学……などなどにまたがって、「直観的にわかる」を広げていきたいと思うわけです。それが生活や仕事にもつながってくる。