僕の『勉強の哲学』(二〇一七年)と『現代思想入門』(二〇二二年)の言い方を使うなら、センスとは何かを「仮固定」した上で、その「脱構築」へ向かうことになります。
この本は、センスという言葉の、よくある使い方から出発します。
実は、センスというのは、芸術論や美学の用語と言えるかは微妙なところです。専門的に言うと、「センスについて研究する」というのは……うーん、ちょっと怪しい話に見えるかもしれません。大学で研究するなら、「センスとはこうである」と、真正面から定義することは難しいでしょう。でも、次のように問題を立てるのなら可能だと思います。
「センスという曖昧な言葉で言われているのは、どういうことなのか」
これは、「言葉の使われ方の分析」です。センスとは何か、と真正面から答えを求めているのではない。センスという言葉の「用例」を分析するわけです。
この本でも、「センスってこんなふうに使われますよね」という用例から始めたわけです。
そして、手堅い研究としては、「人々はこういう意味でセンスという言い方をしているようです」という、社会観察のような結論にとどめるのではないか。
センスとはこうだ、というストレートな定義は控えるわけです。
しかし、この本では、その禁を破るというか、蛮勇として、センスとはこうだというひとつの見方を提案することになります。
まあ、いま「禁を破る」なんて言いましたが、それも弱腰すぎる言い方で、概念って、やはり誰かが勇気を出して定義するしかないじゃないですか、とも言える。難しいですね。
理論を新たに立ち上げようとするなら、自分なりに片寄った話をせざるをえません。ゆえに、責任が生じます。哲学でも、芸術論でも社会学でも、誰かが勇気を出して何かを定義したことが発端となって、その後の議論が続いているわけです。
というわけで、センスという曖昧な言葉を、僕なりに、概念として作り直すような試みをしてみたいんですね。それには勇気が必要です。
すいません、ややこしい話になりましたが、「センスの哲学」などと言うと、専門的に見て、いかがなものかと疑問が出てくるかもしれないので、一応の説明をしました。
話を戻しましょう。
センスという言葉には、トゲがあると思います。
つまり、どこか排他的に聞こえるところがある。「あの人、がんばってるけど、センス悪いんだよね」——というような。つまりそれは、努力ではどうしようもない部分を指していて、努力していてもそれを否定するようなニュアンスがあったりするわけです。
良くない言葉ですが、いわゆる「」に似ているところがあると思います。地頭とは、もとからの変えられないものとして言われる。僕はこういう言葉に警戒しています。なぜなら、努力による変化を認めず、多様性を尊重せず、人を振り分けようとする発想があるからです。
ですが、この本では、センスはどうにもならないものだとは考えません。
ひとまず、センスがいいと言われる「好ましい状態」があると仮定します。そして、センスなるものに、人を解放してくれるような意味を与えるように考察を進めていきたい。
人をより自由にしてくれるようなセンスを、楽しみながら育てることが可能である。というのが本書の立場です。