折しも時代は高度成長期。専業主婦率は、1975年(昭和50)のピークに向かって右肩上がりだった。生活に余裕が生まれ、メディアやリアルでプロから料理を学ぶことが広まり、そのなかで“正しい”だしの取り方、つまり合わせだしのレシピは浸透していったのだ。
しかし毎日、違う料理で食卓を飾ろうとするのは誰であろうとも大変である。先の『味噌汁三百六十五日』には「来る日も来る日も、豆腐、わかめ、玉葱(たまねぎ)、千六本大根の繰返しでは、味噌汁は不味(まず)いものだと不評判になるのも無理からぬこと」とあり、みそ汁のレパートリーを増やすように諭される。
それは、台所を切り盛りする当時の女性たちに、大きなプレッシャーを与えたにちがいない。だからこそ、逆の力学も働いた。手軽にみそ汁がつくれる粉末の「だしの素」のヒットである。
1964年(昭和39)にシマヤ商店(現・シマヤ)がかつお節ベースのだしの素を売り出すと、1969年には東洋水産、ヤマキが相次いで同様の商品を発売。さらに、うまみ調味料のパイオニアである味の素が1970年(昭和45)に「ほんだし」を引っ提げて参戦し、市場がにわかに活気づいた。
「天然素材かインスタントか」の構図
1969年(昭和44)4月24日の朝日新聞朝刊には「売れ行き伸びるだしの素」という記事があり、「手軽で味もまずまず」と評価されている。かと思えば、3年しか経っていない1972年10月12日の同紙朝刊から「だし再考」という記事が8回にわたって連載されていた。
連載の趣旨はインスタントの粉末だしを多用せず、本来のだしを見直そうというもの。初回には「天然のものが一番」という見出しが躍り、かつお節と昆布でだしを取るという2人の主婦が登場する。
そのうちの1人は「化学調味料はおまじないみたいに習慣でパッパッとやっていた」不精(ぶしょう)な自分を反省。「化学調味料の使いすぎがさわがれてから、そのビンをすっかり片づけ」、朝早めに起きて時間をかけてだしを取るようになったと語る。
10月14日の3回目では先述の辻が登場し、だしの取り方を披露しながら、『味噌汁三百六十五日』より「全神経の傾倒というのが大切な眼目(がんもく)なのでありまして、投げやりな、惰性的な料理法からは、決しておいしいものは生れないのであります」という一節が引用されている。だしの素が一気に広まった反動も起きていたのだ。
新しいテレビというメディアの力も借り、戦後のわずかな間に浸透した“正しい”だしの取り方。それがだしの素の登場によって、さらに絶対視されていく。だしをめぐる「天然素材かインスタントか」の構図はこうして生まれ、人々は今もその間で揺れ動き続けている。