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昭和19年(1944)になると、都市部では建物疎開が始まった。空襲による火災の延焼を食い止めるために、あらかじめ建物を取り壊して防火帯を作ることを目的としたものだ。戦前の昭和12年(1937)4月に制定された防空法に基づく措置で、東京では5万5000戸が取り壊された。

嘉子たちが住む家もその対象となる。そのため2月には近隣の高樹町に家を借りて引っ越している。笄町(こうがいちょう)の屋敷と比較すると、かなり小さな家だったという。しかし、狭いながらも楽しい我が家。愛する人々と一緒に暮らす日々に変わりはない。

夫は二度目の召集も病気で解除されたが、嘉子の実弟は死亡

この頃には中高年の予備役や丙種合格者も根こそぎ召集されるようになっていた。芳夫にも6月に召集令状が届いたのだが、この時も肋膜炎の病根が見つかり、すぐに召集解除されて家に帰された。同月には嘉子の実弟である武藤家の長男・一郎が召集され、沖縄の部隊に送られた。その道中に輸送船が沈没して、一郎は亡くなっている。それだけに、夫が召集された時には生きた心地がしなかっただろう。

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しかし、正式に兵役不適格者と認められて戻された。これでもう兵隊に取られることはないと安堵していたのだが……。

「絶対防衛圏」は米軍によって破られつつあった

芳夫が召集解除となった6月には米軍がマリアナ諸島に侵攻し、7月にサイパン島が陥落した。米軍は占領した島々で航空基地の建設を進めている。これが完成すれば、東京を含むほとんどの都市がB29長距離爆撃機の攻撃圏内になる。空襲の恐怖が現実化してきた。また、10月にはフィリピンのレイテ島にも米軍が上陸し、台湾や沖縄などにも敵機の襲撃が頻発していた。南方から日本へ資源を輸送するシーレーンが寸断され、国内の物資不足はさらに深刻になっている。

戦況が劣勢になってきた前年の御前会議で「絶対防衛圏」が定められた。戦争継続のため必要不可欠の支配領域を決めて地図に線引きし、その内側には絶対に敵を入れない防衛体制を構築するというものだが、敵はその絶対防衛圏を突破して日本列島に迫っていた。絶対防衛圏の内側に敵を入れてしまえば、もはや戦争継続は不可能……。誰もが解っていることだった。しかし、軍や政府、国民も「停戦」や「降伏」を口にする勇気がない。