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同じ屋根の下で暮らした2人、恋愛結婚だった可能性も

恋愛結婚なのか、親や周囲から結婚を勧められた見合い結婚に近いものだったのか。輝彦の証言だけでは、そのあたりははっきりしない。しかし、何事も民主的に本人の意思を尊重するのが武藤家の家風。嘉子が望んだ結婚相手だったことは間違いない。芳夫のほうはどうだったか、彼が嘉子のことを異性としてどう思っていたのか?

それに関する資料は見つからない。寡黙で思慮深く、慎重に判断する性格だったといわれる。「気が弱そう」といった印象を抱く人もいたようだ。嘉子とは真逆のタイプ。欠点を補いあう良い組み合わせには思える。お互い自分にないものをもつ相手に惹かれあう。そういった感じだったろうか?

嘉子は和田姓となり、新婚夫婦は実家を出て池袋にアパートを借りて暮らした。結婚してから約1カ月後には太平洋戦争が始まり、軍ではさらに多くの兵士が必要になっていた。30歳近い予備役も次々に召集されるようになる。が、芳夫は肋膜炎(現在は胸膜炎と呼ばれている)の病歴があることで徴兵を免れていた。

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太平洋戦争が始まった当初、夫は徴兵を免れていたが…

肋膜炎は肺の外部を覆う胸膜に炎症が起こる病気で、原因のひとつに結核菌感染がある。徴兵検査の合格者は甲種、乙種、丙種に区分され、結核菌感染と関連する病歴のある者は丙種に振り分けられる。平時に徴兵されるのは甲種と乙種だけ。戦時でも丙種の者が徴兵されることはまずありえないというのが、これまでの常識だった。

毎日のように街のどこかで、出征の兵士を見送る万歳三唱の声が響いていた。その声の数だけ、一家の大黒柱を兵隊に取られて寂しさと不安にさいなまれる家族がいる。戦死報告が届く家も増えていた。それを横目に少し後ろめたさを感じながらも、嘉子は夫との幸福な日々を過ごしていた。

それから1年余りが過ぎると、ふたりにはさらにうれしい出来事が起こる。嘉子の体に新しい命が宿ったのである。