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どんな嵐よりも痛手だった甥っ子の死

 セヴァーン号の艦長は、海軍本部への報告書に、航海長の死後、キャンベルという名の乗組員を昇格させて穴を埋めたと記している。そのキャンベルは「どんな困難や危険にさらされても、すばらしい勤勉さと毅然とした振る舞い」を示したという。だが、それから幾ばくもなく、同じ報告書に「ミスター・キャンベルが本日死亡したと知らせを受けたところだ」と加えている。

 センチュリオン号の士官候補生で、この病に罹って歯の抜けた口が暗い洞窟のようになっていたケッペルは、死者の名簿をまとめることが嫌になり、「死者の何人かについては、名簿に書き込むのを怠った」と申し訳なさそうに記している。

 その後死んだある者は、名簿への記入を省かれずにすんだ。そこには「Able Seaman〔上等水兵〕」を意味する「AB」と「死亡除隊」を意味する「DD」という一般的な略語が記されている。今やインクは色あせてはいるが、消えかかった墓碑銘のようにまだ読み取ることができる。「ヘンリー・チープ、AB、DD、……海葬」と。見習いとして乗り込んでいたチープ艦長のまだ年若い甥である。

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 甥っ子の死は、ウェイジャー号の新任艦長チープにとって、どんな嵐よりも痛手だったに違いない。

 バイロンは、死んだ仲間を海洋葬できちんと弔ってやろうとしたが、死者があまりにも多く、割ける人手がほとんどなかったため、たいていは弔いの儀式もせずに遺体を海に投棄するしかなかった。

 詩人のバイロン卿は、「祖父の『物語』」に触れ、「墓もなく、墓参する者もなく、棺もなく、無名のまま」葬られたと詩に詠っている。

憧れのロジャーズ船長が立ち寄った島

 3月下旬を迎える頃、艦隊はドレーク海峡を通り抜けようと試みたものの3週間近く失敗し続け、ウォルター牧師の言う「全滅」の危機に瀕していた。一縷の望みをかけたのは、ホーン岬を素早く周り、最初に目に入るはずの島に向かうことだった。チリの西海岸から約670キロほどの太平洋の無人の島々、ファン・フェルナンデス諸島である。「我々が海の藻くずにならずにすむには、そこに到達するしかない」とウォルター牧師は記している。

 海の物語をこよなく愛するジョン・バイロンにとって、これらの島はただの寄航地にとどまらず、伝説に彩られた場所だった。1709年、英国人船長のウッズ・ロジャーズが、乗組員が壊血病に冒されていた時に立ち寄った場所である。ロジャーズは日誌に詳細を書き留めている。その日誌は、後に『世界巡航記』として出版され、バイロンの愛読書となる。