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「連れて行かないでくれ」と頼んだが、犬を小屋から引きずり出し…無人島で遭難した145人の男たちが達した“飢えの限界”

『絶海――英国船ウェイジャー号の地獄』より#3

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タフな掌砲長は食料を探し続けた

 それまでの上下関係は、船の沈没によって瓦解してしまった。今や誰の手に配られているのも、同じ悲惨な手札だった。そうした状況──寒さ、飢え、混乱──によって「人は世をはかなむ」ようになるとバルクリーは述べている。

 だが、このようにみなが等しく悲惨な状況に置かれ、このように等しく苦しい状況にあっても、バルクリーは生きる意欲を失わなかったようだ。自分で建てた立派な小屋の手入れを怠らず、周囲の草むしりをしている。そして、多くの者がただ座して死を、永遠の平穏を待っているようだったのに対し、バルクリーは必死に食料を探し続けた。鳥を狩り、岩から海藻をこそげ落とし、沈没船からできるかぎり物資を引き揚げた。

 手に入れた食料は共同の貯蔵テントに保管しなければならなかったが、それ以外の厚板や道具、靴や布切れなどの貴重な品々は自分のものにすることができた。島では貨幣に価値はなかったが、集落の商人がするように、そうした品々を他の必需品と物々交換したり、便宜を供与してもらったりした。それだけでなく、バルクリーは銃や弾薬を保管する秘密の隠し場所も確保していた。

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 毎朝、自分の小屋から出る際に、バルクリーは警戒を怠らなかった。『キリスト者の規範』に「悪魔に惑わされぬようにしなさい。悪魔は決して眠らず、貪り喰らうことができそうな人間を求めて歩き回っているからです」と書かれているように、注意深くあらねばならぬと考えていたのだ。

 気づくといつの間にか、バルクリーが「仲間」と呼ぶ者がバルクリーの住居の周囲に、とりわけジョン・バルクリーの周囲に群がるようになっていた。そして、次に自分たちがすべきことをバルクリーが考えつくのを待っていた。

食料の窃盗による混乱を鎮めるため、艦長が声明を発表

 ある日、海兵隊長のペンバートンは、バルクリーとその友人のカミンズに声をかけ、自分の小屋で相談を持ちかけた。誰にも聞かれていないことを確かめると、ペンバートンは、副長のベインズ海尉を無能だと思っていることを打ち明けた。その上、チープ艦長のことも「同一視」している。自分の今の忠誠心は、根っからのリーダーであるバルクリーにあると言うのである。

 ちょうどその頃、チープ艦長は窃盗犯のことばかり気にしていた。狡猾なネズミさながらに夜な夜な貯蔵テントに忍び込み、貴重な食料を持ち去っていくのだ。今にも大量に餓死者が出そうだったので、漂着者たちは窃盗犯に激怒していた。バルクリーはこの窃盗を「極悪非道な所業」と呼んでいる。

 乗組員仲間も食事仲間もみなが互いを疑いの目で見るようになった。なけなしの食料を盗んだのはどいつなのかと。

 暴君タイプと並び、船乗りが軽蔑する指揮官にはもう1つのタイプがあった。秩序を保つことができない指揮官、つまり暗黙の約束を守れない指揮官だった。暗黙の約束とは、船長が身の安全を守ってくれるからこそ、乗組員は忠誠を尽くすということである。今や漂着者の多くは、自分たちの物資を守ることもできず、盗人を捕まえることもできないチープを軽蔑するようになっていた。中には、食料をバルクリーの小屋に移すべきだ、バルクリーならもっときちんと管理できると主張する者もいた。

 食料の管理をバルクリー自身が望んでいるわけではなかったが、それでも窃盗について「相談」しようとチープに提案した。その働きかけは、あたかもバルクリーが一同を代表しているかのようだった。

 チープは、この混乱を鎮めなければこの前哨基地は崩壊するだろうと考えていた。そこで声明を発表する。士官と海兵隊員は全員が交替で貯蔵テントを見張ることとするというものだった。

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