パリに留学し始めた頃、一日中誰とも会わずに練習した
塩谷 務川くんはクラヴィコードのような小さな音を奏でる古楽器に魅了されているし、自宅でささやかな曲を弾く、気負わない時間こそが至福であるともよく言っている。その一方で、大きなコンサートホールで、何百、何千のお客様を前に音を響かせる機会がどんどん増えているんですよね。素晴らしい飛躍でありながらも、そうした現状に少しの自己矛盾を抱いてしまうのではないか……というくだりですね。
務川 はい。まさに、そうした自己矛盾を抱いています。演奏家は寒暖差が激しいといいますか、地味な日と派手な日の差が非常に大きい職業です。パリに留学し始めた頃は、携帯電話をチェストにしまって、一日中誰とも会わずに夜まで練習するような日もよくあったのですが、そうやって静かな環境を作ることで、ようやくわかってくる音楽もあります。そうした自宅での地味な日々がありながら、大ホールで大勢の方を前に演奏する日もある。家で弾いているときのように大ホールでも気負わず演奏できれば良いのですが、それは簡単なことではありません。
塩谷 ただ、務川くんがそうしたことを時折言葉にして発信しているからでしょうか。務川くんのリサイタル会場では、客席の穏やかな連帯を感じます。「彼のささやかな音に耳を澄ませよう」というお客さんそれぞれの思いが、静謐な、でもあたたかい空気を作っている。
務川 それは僕も感じていて、本当にありがたいことです。演奏会という一つの場を一緒に作ってくださっている。塩谷さんはそれを「誰もが静寂の奏者となるこの場所で」という言葉で表されていましたね。
「小さな声」が雄弁に語りかけてくれるとき
塩谷 はい。私もこの静寂を創り上げる一員として、音楽に参加しているのだな、と。そうした文章を書いている中で、「小さな声に耳を澄ませる」という行為の奥深さについても考えるようになりました。
私は昔演劇をやっていたのですが、そのとき演出家の先生が「喧噪の中で話をきいてもらうには、どうしたらいいと思う?」と問うてきたんですよね。劇団員たちは周囲の注目を集めるための方法を色々と答えたけれど、先生は「小さな声で話してみること。そうすれば、周りの人は音量を下げ、耳を傾けて、あなたの声をきいてくれますよ」と教えてくれて、当時小学生だった私は大きな感銘を受けたんです。
ただ「小さな声」に耳を傾ける側は、黙ってそこに座っていればそれでいい訳ではありません。美術も、音楽も、日常の言葉も、その背景にある知識を持っていることで理解が深まることもあれば、動物的でフィジカルな感性を開いていることで感じられるものもある。知性と感性、その両者がうまく重なったときに「小さな声」は雄弁に語りかけてくれるんじゃないか、とも思っています。
務川くんは以前、自らの身体で演奏することではじめて楽曲を真に理解することが出来る、といったようなことをnoteに書いていましたよね?