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「その日は奨励会の例会と被っていたのですが、自分は三段昇段を決めていたので対局がなく、駆り出された感じでした。そういう最高峰の舞台の記録をとれるのは嬉しかったです。(藤井の)記録をとっているときには、常に負けてほしいと思っているので、勝ちに近づいていくうちに気持ちは落ち込んでいきました。(先に行かれたくない気持ちが)あったと思います。

 最初に(藤井の)記録をとったのはデビュー24戦目でしたか。叡王戦の対梶浦宏孝四段(当時)戦です。(藤井が伊藤に気付いた様子は)ないと思います。あのときはなぜか佐々木勇気先生がいたのを覚えています。私が部屋に入ったときにはすでに端の方に座っていました。なんでここに来ているのかなと。対局開始後に出て行かれたと思います。その頃はまだ面識はありませんでした。(同世代の記録をとることに対して)かなり先を行っている人でしたし、接点もなかったので、そこに対しては抵抗はなかったんですけども。勉強になりますし、強いですから。

 

(藤井の優勝を目の当たりにして)ふふふ、そうか優勝までしてしまったかという感じですね。その日は打ち上げまで参加して、途中で帰宅したと思います。(藤井と話したことは)なかったです。立食でしたし、職員の方が気を使ってくれたんだと思います。私もまだ中学生でしたし。(家に帰ってその日の将棋を振り返ったのか)ああ、どうですかね……。その辺の記憶はそんなに。将棋の内容は今でも2局とも覚えていますけども。(藤井の将棋だからか?)まあそうですね、そういう将棋は特に覚えています」

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クラスに馴染めなかった中学時代

 伊藤は中学時代には友達と話すことがほとんどなかったという。18歳の時に語られた言葉には、思春期の痛みが込められていた。

「そうですね、自分から特に話すことはなかったです。全く話しかけられないというわけではなかったと思います。(休み時間も棋書を読んだり?)そうですね。周りの目はあまり気にならなかったです。何度かは(何を読んでいるのかと)聞かれたことはありました。いじられた記憶はありますけど。基本、男だったと思います。ルールくらいは知っているんでしょうけども。そこの記憶はあんまり。結構学校に行っていない時期とかもあったんで。記録係とかもありましたけど、いわゆる不登校みたいな立場だった時期もあります。中学2年の4月から夏休みに入るまではずっと休んでいました。クラスに馴染めないというか、あったんでしょうね。基本的に将棋の勉強をしていた感じです。研究会とかはしていました。

 家族は心配して、『学校に行ったほうがいい』と言われました。さすがにまずいなと思って、2学期が始まって少し行くようにしました。(友達からのメールは?)そういうのは全くないです。交換している人がいないので。(不登校時に先生が)家に来ることはなかったですが、電話をもらったりとかはありました。(夏休み明けに学校に行く気持ちになれたのは?)やっぱり世間体ですかね。さすがに中学くらいは行かないとまずいというか。自分の場合は世間体としか言いようがないと思うんですけどね。

(その頃は将棋が支えになっていたのか?)支えとはちょっと違うような……。そうですね、やっぱり将棋に集中したいというか、そういう一心だったというか。ちょっとよくわからないですね」