将棋は一人で強くなるのはなかなか大変です。「この人に勝ちたい」と思える人がいるのはものすごくプラスになります。刺激がないまま何十年も先輩に挑み続けるのは、気持ち的に盛り上がらないでしょう。あとやっぱり技術的に高いレベルの人が近くにいたほうが、絶対に自分も伸びますよ。

森内俊之九段(大川慎太郎著『証言 羽生世代』講談社)

 フルセットになった第9期叡王戦五番勝負。第5局の終盤、挑戦者・伊藤匠七段は持ち時間最後の30秒プラス秒読みの1分を費やして、金を2枚も渡しながら先手・藤井聡太叡王の竜をとらえて必至をかけた!

挑戦者・伊藤匠七段 ©文藝春秋/石川啓次

 それを見て藤井の最後の攻勢が始まる。プロの第一感は「後手玉に詰みなし」なのだが、調べてみると、どの変化も際どい。藤井が出す選択問題はどれも正解は1つしかない。

 取ると詰み、逃げると詰み、逃げると詰み、取ると詰み……。

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タイトル移動を告げる一手

 いや、このとき藤井は「問題を出す」という上位者の気持ちではなかっただろう。タイトルをいくつ持っていても、これまでの対戦成績がどうでも、防衛だろうが何だろうが「今この将棋を負けたくない」、その一心で指しているはずだ。かつて幼い伊藤匠に負けて泣いた頃と同じ気持ちで。

これまでタイトルを一度も失ったことがない藤井聡太叡王 ©文藝春秋/石川啓次

 伊藤は慌てずに正着を指し続け、玉が2二まで逃走した。1三に逃げ場所があるのが大きく、どうしても詰まない。右玉、7二にいたその玉が、遠い1筋の端歩のおかげで助かるとは、盤上のドラマは常に筋書きがない。

 藤井は何度も髪をかきあげガックリ、ガックリとする。最後の桂の王手も、うっかり上に逃げると頓死だが、伊藤は落ち着いた表情で、40秒の声とともに玉を下に逃げた。

 それはタイトル移動を告げる一手だった。藤井の肩が落ちた。水を飲み、頭を下げた。18時32分、156手で伊藤勝ち。

 伊藤が3勝2敗で叡王を奪取した。

©勝又清和

 青野は皆の気持ちを代弁するように言う。

「第3局も悪かった将棋を終盤でひっくり返したんですよね。藤井さん相手に終盤で逆転勝ちできるのはすごいですね。しかも藤井さんの先手に2局勝つなんて」

 皆がうなずいた。