女子バレー日本代表チームは、6月14日に国際大会「ネーションズリーグ」でパリ五輪出場を決め、強豪国に打ち勝って準優勝にまで上り詰めた。躍進するその姿に、パリでのメダル獲得への期待も高まっている。
ここでは、そんな日本代表チームを引っ張る眞鍋政義監督の『眞鍋の兵法 日本女子バレーは復活する』(文藝春秋)より一部を抜粋して、強さの理由を探る。
一度はロンドン五輪で銅メダル獲得までチームを導いた眞鍋監督。東京オリンピックでの予選敗退という厳しい結果を受け、再び代表監督に名乗りを挙げたあと、どんな体制を整えたのか――。(全4回の3回目/続きを読む)
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アメリカで経験を重ねた川北コーチ
私が代表監督を退いてから5年。選手は世代交代が進んでいる。スタッフまで一新して試行錯誤をしている余裕はない。そこで中核には、第一次眞鍋ジャパンでともに戦い、気心の知れたメンバーを配置した。
総括コーチは川北元、マネージャーは宮﨑さとみ、アナリスト(現・チームマネージャー兼コーディネーター)は渡辺啓太、メンタルコーチは渡辺英児。さらに、監督付戦略アドバイザーとして竹下佳江を迎えることにした。
コーチの川北元とはひょんなことで知り合った。
彼はもともと順天堂大学のバレー部出身。しかし、選手の道は早々に諦め、大学院でスポーツ科学を学び、中学校、高校の非常勤講師となった。その傍ら、母校の順大でコーチをしていたのだが、もっとバレーの道を究めたいという情熱を抑えることができず、教員を辞めて、アメリカへと旅立つことになる。
なんの伝手もなく、最初は英語もしゃべれなかったが、アメリカのバレー界では有名なブリガムヤング大学のカール・マクガウン監督のもとを訪ねていく。そして、「何でもいいから手伝わせてほしい」と言って、1ヶ月ひたすらボール拾いをするところから始めた。
バイタリティとガッツは人一倍。愛嬌があって誰からも好かれる人柄。マクガウン監督にもすっかり気に入られた。あるとき、練習を見学に来ていたペンシルベニアの州立大学の監督から声をかけられた。「きみはこれからどうするんだい?」「もっとコーチの勉強をしたいんです」「じゃあ、うちに来ないか」という話になり、アシスタントコーチとして採用された。
そこで経験を積みつつ、次に川北が目指したのがアメリカ代表チームである。2005年、郎平(ロウ・ヘイ)がアメリカ代表の監督になると、川北はアポなしで訪ねていった。郎平は現役時代に中国代表として三大大会すべてで金メダルを獲得。監督としてはアトランタオリンピックで母国を銀メダルに導いている。その名将の下で学ぶチャンスを逃すわけにはいかない。最初は郎平も驚いていたが、数日間テストをするうちに川北を気に入ったようで、正式にナショナルチームのコーチに採用された。
川北コーチとの出会い
私が川北と知り合ったのは、2008年のワールドグランプリのときだ。予選ラウンドが神戸で行われることになり、来日したアメリカ代表が久光製薬の体育館で練習することになった。当時、久光製薬の監督だった私が練習を見ていると、スタッフに日本人がいるではないか。おや? と思っていたら、「川北と言います。郎平監督の下でコーチをしています」と挨拶された。それが最初の出会いだった。