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 おそらくこうしたSNSの反響は、藤本タツキと編集部にとって想定外だったのではないかと思う。彼らは記事の冒頭にあげたマンチェスター追悼式での、伴奏のない場所で歌われた『Don't look back in anger』のような静かな作品の受容を読者に望み、そのために前述の配慮などもしていたのではないか。『ルックバック』のオンライン公開日を事件の当日ではなく1日後にずらしたのも、事件の起きた日に当事者への追悼と追憶を邪魔しないためと解釈できる。

 だが実際のSNSはその想定をこえ、熱狂的なサッカーチームのサポーターが勝利の凱旋歌として『Don't look back in anger』を歌うように(じっさいにこの歌はそうしたサポーター集団にもしばしば歌われる)藤本タツキという新しい文化的ヒーローの才能への賞賛で埋め尽くされていった。「事件の消費」「犯人の悪魔化」と言う批判はそうしたSNSでの熱狂、作者個人の意を超えた「神化」の空気に対する反発や防衛反応として発生し、そして「ポリコレか表現の自由か」という不毛な党派的対立の中に飲み込まれていった印象だ。

 長くなってしまったが、映画『ルックバック』について書く前に、こうした原作公開当時の個人的な記憶は(ここに書いたことは筆者の印象であり、もちろん別の解釈をする人もいるだろう)残しておきたかった。

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映画版が再現する「人間が描く絵の生々しさ、魅力」

 映画公開によって3年前の論争が再燃するのではないかという筆者の懸念も杞憂に終わり、58分間にまとめられた映画『ルックバック』は静かに、しかし小さな公開規模から確実に支持を拡大している。原作のストーリーを忠実になぞりつつ、その中にアニメーションならではの驚くような仕掛けがいくつもある。

『ルックバック』パンフレット 著者提供

 たとえば原作にない冒頭のシーン、真夜中の部屋で藤野が学級新聞に載せる4コマ漫画を描いているシーンでは、机の上の黒い板に見えたものに藤野の顔が映ることによって、それが鏡であることが観客にわかる。アニメーションは、黒い四角に顔が映る絵の表現によって「その物体が鏡である」と観客の脳に定義する手法であることがそのシーンにはこめられている。

 また映画版のオリジナル演出として、藤野が学級新聞に描く4コマ漫画をアニメーション化して見せているのだが、実はその絵は原作の中の藤野の絵より少し稚拙に、「小学生にしては上手い絵」程度に描き直した上でアニメとして動かされている。井の中の蛙として自惚れていた藤野が登校拒否児童の京本の絵に打ちのめされ、必死で練習して上達するが京本にはどうしても及ばない、という成長プロセスそのものを「変化していく藤野の絵を作り手が描く」という手法で表現されているのだ。