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 おそらく人類の歴史上、今ほど多くの人間が絵を描く技術を持ち、そして絵を解釈する鑑賞眼を持った時代はなかったのではないかと思う。ほんの100年前なら日本人のほとんどは絵など描くひまもなく生存に追われていた。だが今は、何十万人と言う人間が絵を描き、何百万人が手元のスマートフォンでそれを見る時代がやってきたのだ。

 藤野が京本の絵に出会い衝撃を受けたように、絵を描くという行為は技術を競うスポーツであると同時に、巧拙や上下をこえて互いの心に触れる対話、視覚の共通言語でもある。今や絵を描くことはインターネットを通じて世界に広がり、はるか遠くの国の少女や少年を時には競うライバルとして、時には絵という共通言語で心を通わせる友人として結ぶ時代が来るかもしれない。『ルックバック』はそうした絵描きの大航海時代に、世界に向けて公開される「絵描き讃歌」となる。

映画『ルックバック』公式Xより

若者たちへ贈る「絵描き讃歌」

 2024年7月、お茶と宇治のまち歴史公園に、京都アニメーションと関係者に寄贈された「志を繋ぐ碑」が設置された。「『志を繋ぐ碑』は、慰霊碑ではなく、本事件に関わったすべての人びとの志を繋ぎ、長く記憶に留める象徴として設置するものです。永くこの歴史公園で皆様に親しんでいただくためにも、献花やお供えはご遠慮いただきますようお願いいたします」と宇治市はホームページでアナウンスしている。

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 映画パンフレットの中で原作者の藤本タツキは、自分が東北芸術工科大学に入学した年に東日本大震災があり入学が半年延びたこと、絵描きとしての無力感の中でボランティア活動をしたこと、それが『ルックバック』の底にあることを語っている。

 3年前に起きた社会的な事件のはるか前、2011年に藤本タツキという若い才能は、絵描きを殺す巨大な災害に出会っている。「何にもならないのに、なんで描いたんだろう」「藤野ちゃんはなんで描いてるの」という作品の中の問いかけは彼の中のものでもあり、今後の作品で答えていくテーマでもあるのだろう。

 映画『ルックバック』では、つなげるとオアシスの曲のタイトルになる仕掛けは演出から外されている。だが劇場で映画を見ながら静かに涙する若い世代の観客たちを見ながら、原作が公開された直後の熱狂と反発に荒れるSNSよりも、3年後に公開された映画を見る劇場の方が、マンチェスターの追悼式で静かに歌われた『Don't look back in anger』に近いと感じた。

 劇場でこの映画を見る若い観客たちの何人かは、絵を描いている、あるいはこれから描き始める若者たちかもしれない。絵描きを殺すのは、孤独な殺人者だけではない。戦争も、災害も、時には巨大な資本やテクノロジーも絵描きから絵を奪い、殺そうとする。そうした、絵描きを殺そうとする世界の中で新たに絵を描き始める若者たち、絵で世界と対話し始める若者たちにとって、『ルックバック』は過去への追悼であるだけではなく、未来への祝福をこめた作品になるだろう。