漫画『ルックバック』公開後にSNSで何が起きたのか
そして『ルックバック』が発表された日が京都アニメーション放火事件の2019年7月18日の2年と1日後、2021年7月19日だったことから、この作品もまたオアシスの名曲と同じように、追悼の意味を重ねた物語なのではないかと読まれたのだ。
だが同時にSNSでは、「事件をエンタメとして消費している」「作中の犯人が妄想にとりつかれる描写が、実際の事件と結び付けられ特定の属性に対する偏見を強化する」という批判も上がった。
公平に言って、原作者も集英社も『ルックバック』を発表するにあたって、十分な配慮を重ねていたと思う。現実の事件のモチーフはそのまま使わず、原作者藤本タツキの姓を2つに分けた「藤野と京本」という2人の少女が、原作者の出身地や出身校をなぞる自伝的作品の形式に変換されている。
その上でタイトルを引用しているオアシスの曲そのものが「テロを題材にした作品ではないが、観客がそこにメッセージを重ねることはできる」という文脈の中にある楽曲であり、そもそもそのタイトルが『Don't look back in anger』であることは「怒りに燃えて振り返るな」、つまり犯人やその属性に憎悪を向けることへの警告にもなっているからだ。
では批判した側が無理解だったのか、という解釈もまた、当時を「怒りに染まって振り返る」断罪になってしまうだろう。個人的な記憶だが、「ジャンプ+」というオンラインメディアで143ページが一気に公開された2021年7月19日当時のSNSの状況は、作品への理解や事件への追悼という静かな感情以上に、藤本タツキという連載作家が突如としていくつもの社会的文脈を盛り込んだ中編を一気に発表した、その才気への熱狂が圧倒してしまっていた記憶がある。
作品への絶賛はもちろん、藤本タツキのスタイルがいかに新しく、過去の作家にくらべ革新的であるかという優越性についての批評が圧倒的な数でシェアされ、彼が『ルックバック』で描いた取り返しのつかない喪失、失われたものへの悲しみや追悼をかき消すほどの大きさになっていた。今思えば奇妙なことだが公開直後のSNSは、作品の受容を作者への熱狂が圧倒してしまう現象が起きていたのだ。