「記録文学の巨匠」吉村昭氏は、戦史文学でも非常に優れた多くの作品を遺した。『戦艦武蔵』『帰艦セズ』『深海の使者』『総員起シ』などがその代表作だが、その圧倒的リアリティを支えたのは、氏がたった一人で行った太平洋戦争体験者への膨大な数の証言インタビューだった。

 その数多のテープ記録から、選りすぐり9人の証言を集めた『戦史の証言者たち』。本書から、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、いわゆる「海軍甲事件」勃発時、長官機の護衛任務についた戦闘機隊のただ一人の生存者である柳谷謙治氏の証言の一部を紹介する。(全2回の第1回/後編を読む)

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6機の護衛戦闘機搭乗員は全員優秀だった

吉村 山本長官機の護衛をするということは、いつ言われたわけですか。

柳谷 前日です。

吉村 何時ごろですか。

柳谷 いろいろ記録があるんですが、前日の午後3時ごろですかね。ソロモン・ニューギニア方面の作戦(い号作戦)が一段落して、長官一行が、ブイン、ショートランド方面の基地の指揮官や将兵の苦労をねぎらうために、2機で行くと……。2機ですから、1機に3機の護衛機がつく、つまり6機の戦闘機ですね。搭乗員は前日に指名され、翌日の朝6時何分に出発ということで、前の日から言われておったわけです。

柳谷謙治氏

吉村 柳谷さんは、その頃、階級は何だったんですか。

柳谷 飛行兵長です。

吉村 護衛戦闘機隊の指揮官はどなたですか。

柳谷 森崎(武)という予備中尉でした。

吉村 その方は優秀な方なんですか。

柳谷 戦争が激しくて、隊長に宮野(善治郎)という大尉がいて、あとその次には中尉、大尉の指揮官がいたんですけれども、全部戦死しちゃったんですね。それで指揮官というとその宮野隊長、その下に森崎中尉がいて、指揮をとっていたのです。

吉村 もちろん優秀な戦闘機乗りばかり集めたわけですね。

柳谷 500時間くらいは戦闘機に乗っている者たちでしたから、超ベテランではないけれども、中堅どころと言ったところです。ラバウルを中心に半年以上も飛び回っていた連中ですから……。空戦をして敵機を何機も撃墜している。

吉村 地理的にもよくわかっているわけですね。

柳谷 ええ、それは十分わかっています。後に、護衛戦闘機の搭乗員が未熟な者たちだったとか、少なくとも優秀じゃなかったとか、いろいろな評がありましたけれども、私達はそうは思わないんです。当時としては、地理に明るいし、ブインまでくらいは目をつむっていても飛んでゆける。余り敵の飛行機も来ない。日本側が制空権をにぎっていた地域ですから、そこでまさか待ち伏せされるということは考えていなかった。

吉村 とすると、護衛と言っても、余り緊張感はこれと言ってなかったのですか。

柳谷 ありません。ただ儀礼的に長官機と参謀長機についていればいいというような……。もちろん空戦はいつでもできる態勢をとっていましたけれども、まさか敵機が来るという想定などはしていなかったわけです。想定していたら6機で行くわけはありませんから……。

吉村 そうですね。多くの戦闘機をつけますね。

柳谷 ええ。必ず出て来るところに行くんだったら、おそらく20機も30機もで行きますが、そういうところじゃなかったんです。ブインにも戦闘機隊がおりますし、ショートランド各地には見張りがおりますから、たとえ敵機が入って来ても、その見張りに引っかかるわけですよ。そのときは、敵機が低空で来たので見張りにも引っかからなかった。レーダーにもキャッチされないような超低空で飛んで来て、迎撃してきたんですよ。