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長官旗を立てた「武蔵」の艦橋に立っていたのは…

吉村 その後、いつ頃長官の戦死を知ったわけですか。

柳谷 約1カ月ぐらいたってから発表になりましたから……。その前に司令長官が、古賀峯一大将に交代になっていたんですね。その時は、むろん山本長官の戦死は知らなかったんですが、5月10日にトラックへ飛行機を取りに行った時、旗艦「武蔵」に長官旗が上がっているんですよ。それで「山本長官が生きていて帰って来ているんだ」ということになりましてね。そのうちに、司令長官が、艦橋に出ているのを基地の見張り員が双眼鏡で見たんです。が、どうも山本長官とは違うようだ、背が少し高く、体も大きい、と。山本長官とはちがう人が艦橋に立っていると、もっぱらの評判なんですよ。それで私は、山本長官は戦死し、代わりの長官が来たのかな、と思いましたよ。しかし、まだ発表がないですよね。発表は、それから10日ほどしてからでした。

吉村 その間、山本長官は生きているなんていう噂もありましたか。

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柳谷 それが余り出ないんですよね、不思議なんです。デマもありましたけれども、生きているというようなことは聞かなかったですね。中には、原住民に助けられて今、山を下っているなんていう情報も、ちょっとはありましたが……。

吉村 柳谷さんたちは、責任を問われるということはなかったんですね。冷たい目で見られるとか。

当時の航空記録。昭和18年4月18日。長官機出発の日のところ(太線)参照

柳谷 ありませんでした。

吉村 その後、護衛戦闘機隊の隊員の中には、戦死した方もいるんでしょうね。

柳谷 私以外は、全員戦死しました。毎日のように出撃ですから……。

吉村 これは一つの想像ですが、指揮官が、柳谷さんたちに死地を選ばせてやろうというような気持もあったんでしょうか。

柳谷 それは私たちにはわかりませんが、私たちとすると、基地にいるよりも戦闘に従事していたほうが気が楽なんですよ。

吉村 そういう心理になりますかね。

柳谷 基地にいて、長官の生死はどうなのか、責任問題は? とか、他の隊員になにも言ってはいけないんだとか、そんなことを思い悩んでいるよりも、飛んでいたほうがいいですから。我々としては、作戦に参加していたほうが気が紛れるわけですよ。そうしたこともあって、出撃の回数が比較的多くなったですね。

吉村 自分ですすんで、ということですか。

柳谷 いや、そうじゃありませんが……。

吉村 自然にそういうふうに命じられて、結局そのほうがよかったということですね。

柳谷 そうです。ですから、私の5月の戦闘記録をみても、出撃は20、23、24、25、26、28、29、30、1、2、3、4日――と連日ですよ。

吉村 何か責任を問われるんじゃないかという恐れというか、そういうような不安もありましたか。

柳谷 責任を問われるという不安より、責任問題を超越した戦争の深刻さと言いますか、それ以上の重い責任といいますか、やらなければならん、戦わなければならんという気持ですよ。何とか劣勢を立て直す。それにはわれわれがやらなければならんというような。

※注:吉村氏はこの証言を元に「海軍甲事件」(文春文庫『海軍乙事件』所収)を執筆した。