女性として初めての弁護士、判事、裁判所所長の三淵嘉子をモデルとしたNHK連続テレビ小説『虎に翼』は、そのフェミニズム的なテーマから例外的な関心と人気を集めてきた。
このドラマの素晴らしさは、戦前から戦後にかけて、人権の平等原則を謳った日本国憲法の制定を背景とした、女性弁護士・裁判官の誕生とそれをめぐる社会の諸側面を、考証に基づいて物語りつつ、それが同時に現在の日本社会の物語にもなっている点である。
つまり、平等な社会の夜明け(それは私たちの現在の社会へと連続している)と、しかしいまだに平等が実現していない現在の私たちの社会を同時に描くという離れ業をなし遂げていることだ。その離れ業によって、私たちの社会が、寅子たちが希望したより平等な社会となるようにという強い祈りが私たちの胸を打ってくるのだ。
そして、このドラマがじつは現代のことも描いているというのが本当であるなら、戦後に主人公の佐田寅子が家庭裁判所の設立に奔走する「裁判官編」を経て、判事に昇進して新潟地家裁三条支部へと赴任する現在進行中の「新潟編」は、現代の何を描いていると言えるだろうか? 「新潟編」での寅子は、東京でのさまざまなつながりを断たれて孤立しているようにも見える。その様子は何を表現しているのだろうか?
私は『虎に翼』の男性登場人物たちに注目したこちらの記事で、非常に簡潔に「ポストフェミニズム」について触れた。裁判官編から新潟編への流れが現代の何を描いているのかという疑問に答えるにあたっては、このポストフェミニズムという言葉が有効ではないかと感じている。
ポストフェミニズムとは何か
ポストフェミニズムという言葉は、1980年代までの第2波フェミニズム(もしくはウーマンリブ)の後のフェミニズムをめぐる状況を記述するために欧米の学問的フェミニズムで採用されてきた言葉である。
この言葉が指すものは多面的ではあるが、ここでは、フェミニズムが上記のような「人間の平等」という理念から別のものへと簒奪されてしまうような状況のことだと定義しておく。その別のものとは、簡単に言えば競争的な資本主義やメリトクラシー(実力主義社会)だ。
女性が「社会進出」することは確かに上記のような「平等」の為には必須のことである。だが、それを押し進めるにあたってそれが現代の資本主義やメリトクラシーに飲み込まれてしまう可能性を、ポストフェミニズムという言葉は考えることを可能にさせる。つまり、現代の競争的な社会の中でキャリア形成する女性たち「こそ」がフェミニズムを代表してしまうような可能性だ。
じつのところ、『虎に翼』の序盤も、そのような可能性を秘めていた。実際、寅子が高等試験に合格した際に、メディア(新聞記者)は「さすが、日本で一番優秀なご婦人方だ」と言う。この台詞は、「一番になることこそがフェミニズム」であるというポストフェミニズムの落とし穴が待ちかまえていることを明らかにしている。