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「全てを持つ」の幻想

 問題は、そのような状況を表現するにあたって、それが「専門職ミドルクラス女性」を通して表現されることである。例えばアメリカでは、元国務省政策企画本部長で、プリンストン大学の国際法学者アン゠マリー・スローターが、2012年に『アトランティック』誌で「女性たちはなぜいまだに全てを持つことができないのか?」(邦訳は「女性は仕事と家庭を両立できない!?」)というエッセイを発表して、大きな論争となった。

「全てを持つ」とは、仕事と家庭を両立させることである。スローターのようなパワーエリートがある種の理想的女性像としてメディアで存在感を得る時に、彼女たちが仕事と家庭の両立という「問題」に直面することが、スローターのこのエッセイを境にこの10年あまり、議論の俎上に載せられるようになった。

 この問題はつまり、共働き時代に家事労働やケア労働を誰が行うのかという問題とも言い換えられる。日本でも、いずれも漫画原作でドラマ化された『逃げるは恥だが役に立つ』や『西園寺さんは家事をしない』は、その問題を検討するものだった。

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『西園寺さんは家事をしない』TBS公式サイトより

 もちろん、それ自体はとても重要な問題であるが、それが男性の問題ではなくなぜか女性のみの問題として枠づけられてしまう、そしてそれがもっぱらミドルクラス的な問題であるかのように語られ、描かれてしまうことは、問い直すべき点である。

 それについては最後に考えるとして、とりわけ「裁判官編」の寅子があたかもスローターのような、現代の専門職ミドルクラスの「働く母」の困難を抱えているかのようであることは、非常に興味深い。

 寅子は家庭裁判所の意義を知らしめるためのラジオ出演(第64話)と、とりわけ裁判所主催の「愛のコンサート」で、スター歌手の茨田りつ子(菊地凛子)に称賛された(第65話)のを境に、メディアの寵児で有名人となり、非常に多忙になっていく(この、メディアで可視性を得る女性とフェミニズムという主題もまた、ポストフェミニズム論の重要な論題である。これについては9月に翻訳を刊行予定のサラ・バネット゠ワイザー『そのミソジニーはいかにして生まれたのか』(堀之内出版刊)を参照)。そして、彼女はあたかも家庭を顧みない父親のようになり、家族とのすれ違いが深刻になっていく。

 そのすれ違いがはっきり見えるようになるのが、第71話で寅子がアメリカから帰国した際である。彼女は、花江にはすべて英語で書かれたレシピ本、子供たちには英語の本をお土産として渡し(その中にはその年(1951年)に出版されたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が入っていて興味深いが)、「たくさん勉強して、世界を広げてちょうだい」と言う。

アメリカから帰国した寅子 NHK公式サイトより

 ここで寅子は、花江には英語も読める完璧なシェフとしての主婦の役割、子供たちには世界の最先端の知識を勉強するエリートという役割を、まったく悪気なくおしつけている。

 まず、レシピ本については、先に触れた第65話のエピソードを参照すべきだろう。「愛のコンサート」で茨田りつ子に称賛され、弱き者を守る裁判官としての役割を「完璧」に遂行し始める寅子だが、そのラジオ放送を聞いていた花江は、突然家族に土下座しながら、「お願い、手抜きをさせてください」と頼む。彼女は「おばあちゃん」(はる)のような完璧な家事はできないと告白し、手抜きと手伝いを子供たちに頼むのだ。