この唐突にも見えるシークエンスは、意図的にこのような並びになっている。片方に、「完璧」な職業人への道を歩み始めた寅子、そして「完璧」な家事はできないと告白する花江。だが、ここでこそ寅子は「仕事と家庭」を両立させる道から逸脱し始めていたのだ。このような寅子と花江の分断が、この6話後の第71話のレシピ本のエピソードで改めて表現されるのだ。
同時にとりわけ、学校の勉強は苦手なのだが「いい子」のふりをするためにテストの点数を改ざんしたりもする娘の優未との溝は深い。それにようやく気づいた寅子は、優未と二人きりで新潟に赴任し、関係の修復に乗り出すことになる。
連帯はあるのか?
このすべてのいきさつは、最初に述べたように、非常に現代的なポストフェミニズム状況を描いているように見える。ポストフェミニズム状況とは、冒頭で述べたように性の「平等」がキャリア追求に置き換わった状況であり、さらにはスローターのような、仕事と家庭の両立が、家族の幸せや生活の質のためというよりは専門職の働く母としての完成された主体の追求の問題になってしまったような状況である。
花江は「ほっと一息ついた時に楽しそうに笑うみんなを眺めること」が自分の一番の幸せだと言い、その余裕を生み出すために家事の手抜きをさせてくれと言う。この花江の台詞は、「仕事と家庭のバランス」の追求が本来の目的を見失ってしまったことをあぶり出しているようだ。「ワーク・ライフ・バランス」が結局はワークのためになる限りでのみ追求できること、とでも言えばいいだろうか。
「新潟編」での寅子は、花江との間にできた溝を修復することもできていなければ(執筆時)、再会したかつての仲間たち(よね、涼子、ヒャンスク)との関係も、かつての学生時代のような暖かい連帯を取り戻したとは言えず、とても孤立しているように見える。この孤立感は、本稿で述べたようなポストフェミニズム的な孤立感なのである。
だとすれば、そこから脱する道は、「仕事と家庭」の問題をミドルクラスの専門職女性という階級限定的なものから解放することだろう。それはおそらく、寅子自身があの演説で言っていた、「志半ばであきらめた友、そもそも学ぶことができなかった、その選択肢があることすら知らなかったご婦人方」と改めて連帯する道を、寅子が見いだす道になるべきだろう。
「新潟編」ではすでにそのような連帯のあり方への模索が始まっている。涼子と玉とのあいだの階級を超えた友情(第84話)、そして第85話で寅子が語る、「拠り所」の問題。寅子は友達がいないらしい優未に友達を作るように言ったが、「拠り所」というものは友達である必要はなく、自分は間違っていたという反省の言である。
ここでの「拠り所」は、障害学者の熊谷晋一郎の言う「依存先」と響き合う。熊谷によれば、自立とは、依存しなくなることではなく、依存先を増やすことだ。これは、自立した競争的な個人の確立をめざすポストフェミニズムとは違った、主体の弱さや相互依存性を前提とする、連帯と社会への志向であろう。寅子はその道を歩み始めている。
そしてそれは、よねの事務所の壁に大書された憲法14条の精神の実現への道となるはずだ。これは予想というより、希望である。