だが、それに対する寅子の最大級の「はて?」とそれに続く演説は、この落とし穴を見事に飛び越える。「高等試験に合格しただけで、自分が女性の中で一番なんて、口が裂けても言えません。志半ばであきらめた友、そもそも学ぶことができなかった、その選択肢があることすら知らなかったご婦人方がいることを、私は知っているのですから」という演説だ。
寅子はこれに続いて、いまだに存在する不平等(女性が判事や裁判官になれないこと)を激しく批判し、そのような不平等のない社会を共に作らないかと呼びかける。個人がメリトクラシーの梯子を登ることをフェミニズムの目的とするのではなく、梯子を登る機会を奪われた人たちと共に平等な社会を作ることを呼びかける。私はこの演説を聞いて、この作品がポストフェミニズムを乗り越えていることに強く感動した。
死んでしまった男たちと共働き社会
だが、その後の展開は、ポストフェミニズム的なものの力はまだまだ強く、寅子のそれとの格闘は続くであろうことを物語っている。
上記の記事で私は『虎に翼』の男性たちが独特の存在感を発揮していることを、期待も込めて述べたが、残念ながらその男性たちはほとんど、戦中と戦後に死んで退場してしまった(生き残ったのは、私が上記の記事で最後に注目した桂場等一郎である)。
とりわけ、夫の佐田優三、兄の直道が戦争で命を落とし、戦後には父の直言も他界して、(母のはるも世を去って)寅子はシングルマザーとなる。当初は同じくシングルマザーとなった花江が家事子育てを担当し、あたかも寅子が「大黒柱」で花江が専業主婦、のような家族の体制が出来上がるように見えるが、新潟への赴任が決まって娘の優未とともに本格的なシングルマザー家庭を形成し、寅子がそのある種の苦境に直面するにいたって、これはやはり非常に現代的な、ポストフェミニズム状況を描いているのではないかという考えが私の頭から離れなくなった。
そのポストフェミニズム状況とは、女性の(家庭外での賃金労働をするという意味での)社会進出は確かに進んでいるけれども、それが人権の平等のためなのか、それとも新たな資本主義の要請によるものなのか分からない(そして後者かもしれない)という状況である。
つまり、男たちが主に戦争によって死んでしまうことは、戦争の歴史的な事実であるのとまったく同等に、現代の雇用と労働の状況の比喩のようなものかもしれないということだ。その状況を一言で表現するなら「共働き社会」ということになるだろう。理由はさまざまであるが、かつての「大黒柱」的な男性は減っていき、女性も働ける、もしくは働かざるを得ないような状況が、現在ではスタンダードになっている。そのような共働き社会は、フェミニズムの肯定的な成果にも見えるが、柔軟な労働(これはいいことばかりではない)を要請する新しい資本主義によって生まれたものにも見える。
男性が死んでいなくなる、それゆえに寅子が大黒柱にならなければならないというのは、そのような状況を極端に表現したものではないか。