「美人尼」に相当な関心
住職聞聲尼は小石川・淑徳女学校の創立者である関係から、子爵・平松時厚氏の令嬢をもらい受け、誠厚尼と命名して感應寺の相続人とした。その誠厚尼も1年の半分ぐらいは鎌倉の別荘に住み、非常に美人であるうえ、被害者・教道尼もそれに劣らぬ美人なので、扇ケ谷付近では「美人の多い別荘」と誰知らぬ者のない評判だったという。
1月27日、教道尼は午後3時ごろ、1町(約109メートル)離れた懇意の温泉旅館に行ってすぐ戻った。もし別荘で何かあれば拍子木をたたいて旅館に知らせる約束になっていたが、当日は何の音も聞こえなかった。凶行現場の座敷の中央には、普段はあまり使わない火鉢が持ち出され、「敷島」*の吸殻9本が灰に突き刺してあった。なくなった物もないことなどから考えると、被害者の美貌にほれ込んだ男か、あるいは既に情を通じていた者の犯行とみられ、決して普通の窃盗犯ではないだろう。
*「敷島」=日露戦争の戦費調達のために大蔵省専売局から発売された口付き紙巻きたばこ。当初は高級品だったが、この事件当時は中級品とされていた。
輪嶋聞聲は明治から大正時代の尼僧・教育者で、「時代の流れに乗り遅れず、有為な人間になれ」という理念から1892(明治25)年に淑徳女学校(現淑徳中学高等学校)を創立。女性教育の先覚者の1人だった。平松時厚は公家出身で戊辰戦争で戦功があったが、誠厚尼は実際は時厚の弟の娘で時厚の養女だったようだ。
それにしても、当時の新聞は「美人尼」に相当な関心を示している。同じ1月28日付の東京日日(東日=現毎日新聞)の見出しの1本は「美貌故(ゆえ)の此の災難」だった。
被害者の姉の証言は…
時事新報の記者が感應寺に行ったところ、聞聲尼は鎌倉に向かった後だったが、被害者・教道の姉(30)が忍教尼の名前で同寺にいた。彼女の話では、一家は5人兄妹で、郷里・愛知が浄土宗が盛んなことから、一番上の兄も郷里で僧侶をしている。
妹はとても快活な性格で12歳の時に出家。明治41(1908)年に上京して感應寺へ来た。大正元(1912)年12月から聞聲尼のお供で鎌倉の別荘に。1月25日に聞聲尼が帰京したとき、手紙を届けてきたが、それには「無事にお師匠さまの教えを守っているから、安心して」と書いてあった。この記事は最後に「教道尼はすこぶる美人というわけではないが、十人並みの嫖緻(きりょう=器量)だという」と書いている。



