史上、犯罪者は数多いが、大米龍雲ほど、ありとあらゆる悪の形容詞を付けられた人物もいないだろう。龍雲が逮捕されたのは1915(大正4)年、強盗・殺人を繰り返し、被害者の多くは尼僧だった。当時新聞の見出しだけでも「殺尼魔」「食人鬼」「極悪人」などと書かれ、検事に「あれほど大胆な悪漢は見たことがない」と言わしめた。
しかし、当時の新聞記事と関連資料を見ていくと、必ずしもそのイメージとは合致しない“顔”もうかがえる。大米龍雲は本当に「悪逆非道の極悪人」だったのか? 当時の新聞記事を適宜現代文に直し、文章を整理。今回も差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全4回の4回目/初めから読む)
◆◆◆
大米龍雲の公判は、1915(大正4)年11月3日東京地裁で行われた。「午前7時ごろから押し寄せた傍聴者は約300人に達し、中には学校を欠席してきた学帽や妙齢のひさし髪(髪をひさしのように前に突き出した髪型で、女学生が好んだので、その異称となった)さえ交じっていた」と4日付東京朝日(東朝)は書く。
続けて「同9時、被告龍雲が繁田判事の下調べを受けるために第1号法廷に引き出された時には、傍聴席のドアを押し開いてなだれこんだうえ、被告、弁護人の出入り口、さては会議室のドアからも、所選ばず法廷内に飛び込むという、近頃珍しい騒ぎ」と記述した。起訴された件数、法廷での陳述内容、ニュアンスは新聞によって微妙に違う。件数は25件が多いが、膨大な中の一部だったことは間違いない。
「私が死刑になっても被害者のためにはなりますまい」
同日付東日の記述を中心に見ると、検事が龍雲の生い立ちに始まって犯罪事実を読み上げると、龍雲は全て認め、23の偽名を使い分けたことについて、菩薩の名を2つ挙げ「25回変名して自由討究されたので、自分もそれにならった」と答えた。
主張に争いはなく、即日結審。検事は死刑を求刑し、弁護人は無期徒刑を求めた。最後に龍雲が要旨「私の罪は体を切り刻まれても間に合わないが、私が死刑になっても被害者のためにはなりますまい。それよりも、無期になって後日出獄し、被害者の冥福を祈りたい」と陳述。東日は「虫のいい命乞い」とした。『斷獄實録』には裁判長と龍雲の尋問と陳述が載っているが、ほとんどの犯行を「さようです」と認めている。



