容疑者の「松本」は女を連れて博多へ飛んだ
このあたり、当時の刑事の捜査手法がよくつかめる。2人の刑事はすぐ長距離鉄道客の乗車・下車が多い新橋駅に駆けつけた。
「8月6日に男女2人連れで荷物14個を持って乗車した客はないか」と調べたが分からない。しかし、7個の荷物をチッキ(託送手荷物)にして博多まで送った客がある。さらに赤帽(駅の軽貨物運送業者)を調べると、7個の荷物を運ばせて6日午後10時40分発下関行き列車に乗り込んだ男女2人連れがあることが分かった。7個のチッキ、7個の手荷物(手回り品)で合計14個。人相も特徴も完全に一致している。
しかし、この列車は順調に接続すれば、8日午後0時39分に博多に着くことになっている。時計を見ると、もう午後1時20分。予定時間を40分も過ぎている。いくら電報で手配しても間に合わない。両刑事はしおれて引き揚げ、橋爪捜査係長に報告した。
ところが、折よく橋爪係長は福岡県人で、博多行き列車の事情をよく知っていた。「連絡船の都合によって、門司で1汽車遅れることが多い」。とすると、まだ間に合うかもしれない、というので、直ちに福岡警察署に松本四郎夫妻の取り押さえ方を電報で依頼した。
本州と九州を結ぶ関門トンネルが開通したのは戦時中の1942(昭和17)年。それまでは関門連絡船が主流だった。1898(明治31)年から始まっていたが、1901(明治34)年からは下関―門司間で運航。山陽本線で来た旅客は下関で下車。所要時間20分程度の関門連絡船で九州に渡り、鹿児島本線に連絡した。
ここからは8月11日付の福岡の地元紙・福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の記事を見よう。実は逮捕の初報としては1日前の8月10日付で報知朝刊が「重大犯人福岡にて捕は(わ)る 諏訪森の尼殺し犯人か」の見出しで報じている。
だが、記事内容を比べると、現地紙ゆえか、福岡日日の方が臨場感がある。
「これだから田舎の警察は困る」
紳士體(体)の兇(凶)漢 強盗福岡にて捕縛
さる8日午後3時ごろ、東京・警視庁から福岡署宛てに長文の電報が到着。それから数十分を経て同署・中嶋刑事は博多停車場に急行した。到着すると、異様な眼光で何かを見いだそうとするようにくまなく見て歩き、駅員に6日午前(午後の誤り)10時49分に東京・新橋駅を発した列車(の接続列車)は何時に到着するかを尋ね、8日午後2時29分着との返答を聞いた。
小荷物係には新橋発の手荷物到着について質問。「中山」と記した小荷物7個と手荷物8個(7個の誤りか)が到着し、既に男2人が受け取って駅の外に持ち出したという答えにやや力を落としたが、「中山」を手掛かりに付近を探した。すると、1台の荷車に荷物を積み、雨覆いをしようとしているのを見て、確かめようと近づいた。少し離れて夏インバネス(男性用和装コート)にパナマ帽、セル(ウール)の袴を着けた一見立派な紳士と、その脇に丸まげの女がたたずんでいた。
よく見れば、警視庁からの電報の人相と相違なし。つかつかと紳士の前に進み、やにわに右手で紳士の帯をつかみ、左手を女の帯に差し入れて「自分は福岡署の刑事だ。取り調べの筋があるから派出所まで同行せよ」と言い渡した。紳士は驚くかと思いのほか、傲然と「これだから田舎の警察は困る。人権の何物かも考えず、ふらちなことをする。乃公(だいこう=俺様)はこのような不法を甘受する者ではない。身分のある者に向かって無礼をするな」と一喝した。しかし、刑事は一向に構わず、「本職は上官の命を受けて職務を執行する」として派出所に引っ張って行った。
あくまで紳士を装い、地方警察の刑事を馬鹿にする。それはこの男の変わらないスタイルだ。記事は続く。




