福岡から同行した中嶋刑事はそこで戻ったが、警視庁からは応援の刑事2人が静岡まで出張。なんとか14日午前7時40分ごろ、東京駅に到着した。当時の時刻表を見ると、東京発着、博多発着とも文中の時刻に近い列車はあるが、一致する列車はない。
その14日付朝刊に初めて龍雲の写真が載った。東京朝日(東朝)と福岡日日で、いずれも連行写真。龍雲とたまはもちろん和服だが、2人の刑事も和服にカンカン帽というのが時代を感じさせる。各新聞は護送の模様と併せて、龍雲が自供したとする事件の内容や彼の生い立ち、経歴などを載せるが、内容はバラバラ。龍雲の供述を刑事から聞いたのだろうが、その供述自体どれほど信用できたか。
残虐な犯行の数々を自白
取り調べについては『警視庁史大正編』がこう書く。
杉並の法仙庵の強盗は贓品が発見されているので問題なく自白したが、諏訪ノ森と鎌倉の尼殺しには何も証拠がなく、推測にすぎないのであるから、頑強に否認したし、また強く押しようもなかった。
警視庁に宛てて送った14個の荷物が1日遅れて到着した。さっそく開いてみると、おびただしい衣類の山。しかもその中には、法仙庵の被害品はもちろんのこと、諏訪ノ森の老尼殺しから鎌倉の尼僧殺しの被害品まで現われた。有無を言わさず追求する石森警部の前に「こうなったら仕方がない。悪事は全部白状する。しかし、そこらの小泥棒とはわけが違う。殺人と強盗だけでも200(件)もある」「それを白状するのだから、警視庁の一番上役を連れてきてくれ」と豪語した。
捜査係長の橋爪警視が現われると、殊勝に頭を下げ、「私がこれから申し上げることは決してうそ偽りではありませんから3~4時間聞いてください」と前置きして、さすがの係長も唖然とするような残虐な犯行の数々を自白した。
経歴についても同書に頼るのが無難だろう。
東京・浅草の富裕な質屋に生まれたが、幼い時、父母を失った。7歳の時、共謀した親戚に家の全財産を奪われたうえ、大分の龍昌寺という荒れ寺の住職・大米龍元の弟子にされ、龍雲の法名をもらった。18歳の時、龍元が病死したので、寺を出て熊本の柔道道場の内弟子に。柔道を習い3段を取った。日清戦争が始まった時、軍夫を志願して戦地へ。敵の地雷にかかって大勢の兵隊が死傷した時、負傷して送還された。この時に鼻柱を失った。その後、静岡県島田町(現島田市)の福仙寺の住職になったが、貧乏寺でつまらないので、間もなく飛び出し、詐欺や窃盗を繰り返しながら各地を転々とした。
ただ、これも100%信用できるかどうか――。「岡山県生まれ」と書いた新聞も多いし、龍昌寺は「身持ちが悪く追い出された」「出奔した」と書いた記事も。
ここまでは「破戒僧の転落の軌跡」といえるが、龍雲はそこからあっさり殺人にまで突き進む。『警視庁史大正編』を基に、同盟通信の司法担当記者、石渡安躬が裁判提出資料をまとめた『斷獄實録第1輯』(1933年)や新聞報道を突き合わせて、龍雲の犯行の足どりを見ていく。(つづく)




