79年前の夏、この町に悲劇が起きた

 京王の高尾駅は、京王高尾線の駅だ。もともと京王電鉄は、戦前に武蔵陵へのアクセスのために御陵線という路線を建設していた。御陵線は1945年1月に営業を休止していたのだが、戦後になって世情が落ち着くと、その復活を求める声があがりはじめる。そして、同時に高尾山の登山口へのアクセスをより強化するための路線建設も求められるようになる。

 こうした声の高まりを受け、京王さんは御陵線の一部を再利用しつつ、途中で分かれて高尾山の麓のケーブルカーのりば前までの路線建設を決定。そして、同時に沿線の住宅地開発も進めることになった。京王高尾線が開業したのは1967年のこと。これによって、東京都心から高尾山の登山口までが鉄道で直結することになった。

 戦前には、高尾駅(なお、浅川駅から高尾駅に改称したのは1961年)から登山口までの道筋には40軒を越える休憩所や飲食店が建ち並んでいたという。京王高尾線開業によって、そうした町並みも大きく変わったのだろう。そして、都心直結、それも中央線と京王線という二つの交通手段があって、始発駅だから決まって座ることができる高尾駅。ベッドタウンが西へ西へと拡大していく中で、駅周辺が住宅地化するのも必然だったのだろう。

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 このように、高尾駅は立派な駅舎が意味を持つ、高尾山の玄関口と武蔵陵墓地の玄関口。加えて、京王高尾線の到来によって刺激を受けて広がったベッドタウン。そうしたいくつもの顔を持つ町なのである。

 

 最後に、もういちど北口に戻る。駅前の甲州街道を西に進んでゆくと、15分ほどで中央線を潜る。このあたりで再び新道と旧道は別の道。高尾山を左に見ながら旧甲州街道を歩いて、もう少し西に向かおう。

 いかにも旧街道らしい雰囲気に、「小仏関跡」という関所の跡。入鉄砲に出女、などという言葉が頭に浮かぶ。そしてさらに西へ。見えてくるのは、中央自動車道と圏央道が交差する八王子ジャンクションだ。この付近は、79年前の夏の悲劇で、歴史に刻まれている。

写真=鼠入昌史