まだ京王線の高尾山口駅がなかったころ。高尾山を登ろうとする人たちは、まだ浅川駅といった中央線の高尾駅から歩いた。駅前から甲州街道を辿ってゆく。いまはごく普通の、つまりは特別目に留まるようなものがあるわけでもない道だ。国道20号、天下の国道だから、交通量はそこそこに多い。
でも、ひと昔前にはたくさんの飲食店や旅館などが建ち並んでいたという。高尾山が東京近郊の行楽地として本格的に注目されはじめたのは、大正から昭和のはじめにかけて。ちょうど、浅川駅の近くで武蔵陵墓地の造営がはじまっていた時期のことだ。高尾山のケーブルカーが開業したのは昭和2年、1927年である。
ただ、今回は高尾山には向かわずに、甲州街道が中央線の下を潜ってすぐの交差点を右に曲がることにする。この道が、昔の甲州街道だからだ。
甲州街道には日本のいろんな歴史が詰まっている
旧甲州街道沿いのいまは、言うなれば住宅地だ。駒木野庭園という立派な庭園があったり、その隣に駒木野病院というこれまた立派な病院があったり。住宅地の中を抜けた少し南には南浅川が流れている。何かの抜け道なのか、そこそこの交通量。定期的にバスがやってくるから、バス通りという一面もあるのだろう。
さらに西に進んでゆくと、小仏関跡の碑。戦国時代、北条氏が関東一円を治めていた時代にはもう少し進んだ先の小仏峠に置かれ、富士見関と呼ばれていたという。たぶん、小仏峠からは富士山が見えるのだろう。
江戸時代に入ると、徳川幕府が五街道を整備する。甲州街道もそのひとつで、小仏峠の麓の東側に移された関所は、道中奉行の支配のもとで、江戸の出入りを厳しく管理する役割を果たした。
いまではもちろん手形がなくても関所で足止めされることはない。少しずつ、どことなく歴史風情を増してゆく旧甲州街道を西へ。すぐ北側には並行して中央本線が通り、南側には南浅川。見上げれば、左手の山は高尾山、右手の山にはかつて八王子城が置かれていた。
八王子城は、小田原城の支城として北条氏によって築かれた。豊臣秀吉による小田原征伐の折には、わずかな武将と農民や婦女子が籠もって籠城戦。前田・上杉・真田といった豊臣諸将による攻撃にはおよそ耐えられず、麓の村では川の水で炊いたら米が赤く染まるほど、凄惨を極めたという。