終戦まであと10日の夏の日、60人が命を落とした
重傷者は戸板に乗せて運び出され、旧甲州街道沿いの民家の庭先に並ぶ。たまさか中島飛行機の工場疎開の輸送をしていたトラックがあり、それらによって中島飛行機の病院やいまは駒木野病院になっている当時の小林病院などに運ばれてゆく。
すぐに遺族や関係者に引き取られなかった遺体は49体に及び、8月6日になってからトラックで近くの日影沢に運ばれ、そこで荼毘に付されている。即死しなかった重傷者でも、数日後までに亡くなった人もいた。彼らを含めれば、実に60名ほどが命を落としたという。終戦まであと10日。真夏の真昼の悲劇であった。
この銃撃事件によって、とうぜん中央本線は再びの運休になっている。ただ、ここでも鉄道マンの意地なのだろう、すぐに八王子駅からSLが差し向けられて、停車したままの被害列車を浅川駅に牽引。架線などの修繕も終え、夕方の17時15分には運転を再開している。
いま、この悲劇の舞台となった湯の花トンネル付近を訪れると、何ごともなかったかのように列車が行き交っている。特急「あずさ」が颯爽と駆け抜けたかと思えば、各駅停車がその合間にやってくる。
小さな踏切が、線路の北と南を結んでいる。その周りは、小さな畑が集まっているようなところ。旧甲州街道沿いまで降りてくると、そこには旧道らしい道が続く。
線路端の畑も、静かな旧甲州街道も、そのときにはどれだけの悲鳴と慟哭に包まれたのだろうか。
旧甲州街道を歩いてこの場所までやってくると、「いのはな慰霊碑入口」と書かれた看板が見えてくる。この看板に導かれるように畑の中を歩いて登ってゆくと、線路のすぐ脇に「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」が静かに佇んでいる。
その場所から後ろを振り向けば、高尾山。慰霊碑に供えられた花が、戦争末期の悲劇をいまでも忘れられていないことを教えてくれる。
写真=鼠入昌史