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 しかし、八王子空襲によってそんな中央本線も寸断されてしまう。それでもすぐに復旧させていたのが、この時代の鉄道マン。空襲からわずか3日後の8月5日には、中央本線は全面復旧している。

 もちろん、いまの安全水準から見れば足許にも及ばない次元だっただろうが、いかなる状況でも列車を走らせ続けようという、当時の鉄道マンたちのプライドが垣間見える。

 その列車は、10時10分に新宿駅を出発、中央本線から篠ノ井線に入り、19時27分に長野駅に到着するダイヤだった。ただ、さすがにいくら誇り高き鉄道マンでも、当時の状況で定時運転をするのは至難の業。実際に新宿駅を出発したのは、10時30分頃だったという。おおよそ20分ほどの遅れだ。

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「列車を待ったが、それがなかなか来ない。そのうちに空襲警報が出た」

 遅れを取り戻すことはできず、八王子駅も20分ほどの遅れで出発。浅川駅には、ちょうど正午くらいに到着した。『旋風二十年』など、戦時中から戦後の日本社会をつぶさに書き残した著作で知られる毎日新聞の記者・森正蔵もこの列車に乗っていた。そのときのことを、彼は次のように書く。

「浅川駅で江口と話し合いながら列車を待ったが、それがなかなか来ない。そのうちに空襲警報が出た。房総半島方面からB29に誘導されたP51の一編隊が続々関東地区へ侵入してきたのである。ラジオ報道はその編隊が八王子方面へも向かっていることを報じた。そして僕たちとともに浅川駅で列車を待っている旅客たちに待避の要求を駅長が出したのは、それから間もないことであった」(『挙国の体当たり』より)

第二次世界大戦時、P51の機関銃を整備するアメリカ空軍 ©時事通信社

 つい数日前に八王子の市街を焼き尽くした敵機が、またも八王子方面にやってきた。この頃の空襲は、端からみれば手当たり次第といった具合だったから、なぜ浅川駅まで飛んできたのかはわからない。ただ、浅川駅近くには軍需工場の中島飛行機浅川工場があったから、そうした事情も関係しているのかもしれない。