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戦争末期でも人の移動は活発だった当時、激混みの列車はトンネルにさしかかった

 戦争末期、一般の人々の旅行は厳しく制限されていたという。ただ、実際には山梨・長野方面に工場ごと疎開していたケースも多く、また疎開先から都心に通勤する人もいるなど、人の移動は活発だった。疎開先の親戚を訪ねたり、また空襲の被害を案じて疎開先から都心に様子を見に来たり、出征する家族を見送りに来たり。森正蔵も、家族が疎開している甲府に向かう途中だった。

 ともあれ、そんなわけで列車は鈴なりの人。その列車は電車ではなく電気機関車、つまり先頭の機関車が後方の客車をひっぱる列車だった。

 ただ、客車だけでは乗り切れないほどで、デッキはもちろん連結器の上に跨がったり、機関車の中に押し込まれたりと、文字通り溢れんばかりの人を乗せていた。ドアから乗り込めずに窓から乗るほどの混みっぷり。いまの時代の満員電車なんてかわいいほどの、激しい混雑だった。

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1945年、武蔵野を攻撃するアメリカの爆撃機 ©時事通信社

 列車は15分ほど浅川駅に停車してから出発した。防空警報が出ている最中ではあったが、浅川駅を出て少し走れば短いながらも湯の花トンネルがある。さらにその先には長大な小仏トンネルが控える。いつまでも駅に停まっていてP51の標的になるくらいなら、とにかく出発してトンネルに入る方が安全だと考えたのだろう。

 浅川駅を出発し、5分ほど走って列車は湯の花トンネルにさしかかる。しかし、ここで敵機に発見された。4機のP51が上空で旋回しながら急降下。まずは機関車に狙いを定めて機銃掃射を仕掛ける。まったく無防備な列車は、敵機に対抗する術を持たない。襲撃を受けて急ブレーキをかけ、2両目までがトンネル内に入ったところで停車した。