そうした経緯でできた最初の政府公認の蒸留所が、ザ・グレンリベット蒸留所です。蒸留所にとっても政府の目を逃れて密造を行うよりも、公認のもと税を払いながら大規模化し、販路を拡大するほうが合理的だったのでしょう。グレンリベットの創始者ジョージ・スミスは大きな成功を収めました。それまでの密造から足を洗い政府から公認を受けたスミスは一方で、他の密造業者からは裏切り者とされ、命を狙われるほどの恨みと妬みを買ったそうです。そのため、護身用に二丁のピストルを常に携行するほどでした。
グレンリベットの成功を見て、他の蒸留所も続々と免許を申請するようになり、スコットランドの密造時代は終わりを告げます。これにより、ウイスキーが産業として育つ素地ができあがったのです。
その頃、ウイスキーの製造に関わるその他の「発明」も次々となされています。
まず、1826年、スコットランド人のロバート・スタインがウイスキー史上最高の発明と呼ばれる「連続式蒸留機」の開発に成功しました。さらに、1831年にアイルランド人のイーニアス・コフィーが、この連続式蒸留機を改良して特許を取得し、「カフェスチル」が誕生しました。
税を逃れにくいローランド地方で普及
カフェスチルはアイルランドでは全く受け入れられませんでしたが、スコットランド中部にあるローランド地方で普及しました。その理由はハイランド地方と呼ばれる高地は、収税人の目が届きにくく密造が盛んに行われたのに対して、ローランド地方はイングランドからも近く、なだらかな地形であったことから税を逃れにくい場所だったからです。どういうことかと言うと、ローランドでは「麦芽税」と「釡容量税」という重税を背負いながら生産を行わなければならず、そのため、麦芽の使用量を減らしたり、様々な穀物を使ったりしてコストを下げながら、小さな容量の釡で大量生産を行う必要がありました。連続式蒸留機は一つひとつの釡の容量が小さく、効率的にアルコール度数を高めることができ、様々な穀物を使ってもすっきりとした香味のウイスキーを得られるうってつけの技術だったのです。