少女時代を懐かしく振り返る人々
その後も、訪れる人に聞き続けた。
戦時中、50回を超える空襲があった大阪で焼き出され、珠洲市に避難していたという90代の女性は家族と訪れた。「懐かしい見附島がどうなったか気になって」と話す。家を失って心細かっただろう少女時代、海にすっくと立つ見附島は気持ちの支えになっていたに違いない。
愛知県に在住している中年の女性は、地震が起きてから見附島のすぐ近くにある実家に再々帰って来るようになった。「今回は提出する書類があって」と言う。
実家は地震と津波で全壊になった。「住んでいた兄は墓がある山に避難し、真冬なのにそこで2晩寝たそうです。携帯電話がつながらなかったから、もしかして犠牲になったのではないかと心が乱れました」と振り返る。
見附島には「ちょこちょこ来ます。この海岸で泳いで育ち、愛着がありますから」と話していた。
関東に住んでいる60代の女性も「市内の実家へ帰ったついでに来ました」と言う。
実家は軒並み家が倒壊した地区にあり、母親が独りで暮らしていた一軒家も全壊になった。「外観こそ保っていますが、解体予定です。再建はしません。母は既に金沢の妹宅に身を寄せています」と話す。
女性は「見附島は心の中にある懐かしい場所です。ただ、島が元気な頃はそれほど気に留めていませんでした。ところが崩落でやせっぽちになってしまい、強く意識するようになりました」と語る。
見附島を訪れる「かつて関わりのあった人」たち
こうして見附島を訪れているのは、観光というより被災して家を失った住民や、実家が消えてなくなる出身者、かつて関わりのあった人が多かった。
能登半島地震の被災地には大きな喪失感がある。
見附島は最も被害が酷かった地区にあり、痛々しい姿になりながらも、ぽつんと独りで立ち続けている。その気丈な姿に励まされるのか。失われゆく故郷で最後に残された原風景なのか。
ゆかりのある人々がそれぞれの思いを胸に秘め、引き寄せられるようにして訪れているのは間違いないようだった。
撮影=葉上太郎