能登半島地震による被害が深刻で、「とても観光どころではない」と言われる奥能登。だが、石川県珠洲(すず)市の見附島には、パラパラとであっても訪れる人が絶えない。どんな人が来ているのか。崩落でやせ細った島に格別な思いを寄せる住民や出身者(#6)以外にも、遠隔地から復興支援に訪れた人がいた。
群馬県から来たボランティアの大工・高橋さん
「群馬県から来ました」。快活な声が返ってくる。
高橋宏詩さん(35)。建物や建具の修繕ボランティアとして珠洲市を訪れていた。
本業は大工だ。自営なので仕事の都合をつけては、被災地に来ている。「合計1カ月ぐらいにはなったでしょうか」と言う。
高橋さんはこれまで、ボランティアに来るたびに時間を惜しんで活動し、気力も体力も使い果たして帰る繰り返しだった。あまりにもボロボロな状態になるので、心配した妻が「もう行くのをやめたら」と言うほどだった。
「これでは続かない」と、ボランティア期間中に休みを取ることにした。その初めての休みの日に、見附島を訪れたのだった。アンティーク修理を仕事にしている知人もサポート役として群馬から同行していたので、「無理をさせられない」という気持ちもあった。
妻の実家、震度6強の地区で被災
高橋さんがそこまで奥能登に思い入れをするのには理由がある。
2024年1月1日、震度6強の地区で被災したのである。
妻は珠洲市の隣にある能登町の出身だ。結婚後、初めての正月を過ごすため、12月31日に妻の実家へ帰省した。
翌日の1月1日午後4時6分、最初の揺れが起きた。珠洲市は最大震度5強。実家のある能登町は震度4だった。
高橋さんは玄関の戸を開けに立った。万一の時に開かなくなり、逃げられなくなるのを避けるためだ。東日本大震災で被災した友人に聞いた教訓だった。
居間に戻ったと思ったら、また地震が始まった。午後4時10分。4分前とは比べ物にならないほど激しく、長い揺れだった。
「ガラスがバーンと割れ始め、そこにいた皆がパニックになりました」
妻の実家に集まっていた計12人で小学校の体育館に避難した。備蓄倉庫から段ボールを出して敷くなどしたが、約360人も身を寄せたために毛布が足りず、凍える人もいた。
高橋さん自身も寒くて眠れなかった。停電で辺りは暗闇。頼みは3台のストーブだけだった。夜が永遠に続くのではないかと感じた。
避難所生活は先行きが見通せなかった。道路が寸断されて移動もままならない。近くでは崩落した道路の下に落ちた自動車もあった。
三が日用に各戸で買いだめていた食材があり、当初は炊き出しも「被災してこんなに美味しい豚汁が食べられるのか」という驚きがあったほどだ。それが備蓄で食いつなぐようになり、明日で底を突くと分かった時には「何とも言えない不安感がありました」と話す。