「何かしなければ」という思いが抑えられなくなり物資を積んで
休み明けには仕事があったのに、なかなか「行けない」と連絡できなかった。携帯電話の電波が通じず、電池残量はどんどん減っていく。「あそこは何とか電話が通じたらしい」という噂を聞いて向かうと、そこだけは微かに電波をとらえることができた。
高橋さんが能登町を脱出したのは、被災から5日後の1月6日だった。約120km離れた金沢市へ車で7時間もかけて向かった。
到着した市街地では地震の被害がほとんど見当たらず、「変わらない日常」が続いていた。「嘘だろう。これが同じ石川県内なのか」と驚いた。
奥能登では苦しんでいる人がいる。「何かしなければ」という思いが抑えられなくなった。
その時、ボランティア活動に取り組んできた妻の姉の知り合いが、能登町の実家方面へ車で物資を運ぶと聞いた。高橋さんはこれに加わった。自身が避難者だったので、当面必要な物資が分かる。水を入れるタンク、栄養補助食品、食品用ラップなどを大量に買い込み、車に積めるだけ積んで、金沢を出発した。
高橋さんの車の後ろに、同じように物資を満載したボランティアの車が2台続く。崩落、陥没、隆起、段差、アスファルトの迫り上がり。路面の状況が極めて悪かったうえ、雪まで降っていた。通行可能なルートも日々変わる。前夜に情報を確認したはずだったが、「ものすごくガタガタな坂道を上がると、通行止めだったということもありました。途中のことをよく覚えていないぐらい必死で、本当に怖かった。私達は何とか到着できましたが、別動で向かったグループは途中で車を捨てざるを得ない状況に陥りました。思いだけで突っ走ってもダメだ。物資の運搬は止めようという話になりました」と話す。
翌月、妻と一緒にボランティアで能登町へ
その後は群馬に帰って仕事を続けたが、奥能登のことが気になって仕方なかった。
2月、妻と一緒に能登町へボランティアに向かった。
高橋さんはそれまでも大工の技術をいかした活動を行ってきた。
2011年3月に発生した東日本大震災では、プレハブ型の応急仮設住宅が長期間使われた。仮設住宅への入居は原則2年間で、建物が簡易に造られている。このため入居が長引けば壊れたり腐ったりする。大工仲間と一緒に宮城県内の仮設住宅を回り、そうした箇所を直して歩いた。
原発事故で長期避難を強いられた福島県内では、帰還後の自宅で風景が眺められるよう、帰還者の求めに応じてベンチを製作した。
能登町ではまず、妻の実家のある地区を起点にして活動を始めた。妻の知人や実家を介してニーズを調べ、区長もとりまとめをしてくれた。建物の応急修理に加えて、通常は大工が行わない建具の修繕も引き受けた。