海水浴場が開かれたころの目的は「病気療養や保養」だった
逗子という町の、ただの夏のレジャーの町とはひと味違う個性が、この道を歩くだけでも充分に伝わってくるようだ。そして、シンボルロードを歩くこと10分弱。逗子駅前からだったら20分もかからずに、海にやってくる。海沿いを通る国道134号の下を潜ると、いよいよ逗子海岸だ。
逗子海岸は、北と南を小高い丘に囲まれた、ちょっとした湾のようになっている海水浴場だ。おかげで波も穏やからしく、ウインドサーフィンにはうってつけなのだとか。
海沿いの国道を歩いて海岸の南にある田越川河口近くの橋までやってきたら、サーフボードに乗って川をゆらりゆらりと流れてくるサーファーの姿もあった。この町では、それほど珍しい光景ではないのだろう。
逗子海岸が海水浴場として開かれたのは、明治時代の半ば頃。この時期の海水浴は、いまのようなレジャーとは本質的に違い、むしろ病気療養や保養が目的とされていた。だから、海水浴場の多くは医師によって最適な地として紹介されることにはじまっている。
逗子海岸も例外ではなく、陸軍軍医でのちの日本赤十字社社長の石黒忠悳さんが紹介したのがきっかけだとか。少なくとも、その頃の湘南は太陽の日差しもいまほど強くなく、冬になっても温暖で、病気療養に適した土地だったのだろう。
そんな理由もあってか、逗子の隣町の葉山には1894年に葉山御用邸が設けられている。病弱だった嘉仁親王(のちの大正天皇)の保養地として建設されたのだという。また、逗子の名を広く知らしめることになった徳冨蘆花の『不如帰』でも、主人公の浪子は結核の療養で逗子に赴いている。
「静養の地」の開発は進み、戦前にはすでに「リゾート」へ
明治時代の終わり頃からは、だんだん別荘地としても開発が進んでゆく。横須賀線で繋がっている横須賀が軍港として発展しており、政界や軍関係の要人たちにとって逗子は別荘地として都合のいい場所だったのだろうか。
日露戦争は日本海海戦での“東郷ターン”でおなじみの東郷平八郎も逗子に別荘を持ち、日露戦争後にはその別荘で祝勝会が開かれ、それを機に逗子海岸を東郷浜と呼んでいた時期もあったとか。