たとえば、日本では日常生活の中で「一緒にする」ための技術が乏しい。韓国には、たわいもない冗談やどうでもいい話をしながら相手と親しくなる対話法がある。これは初対面の相手との心理的な距離を縮める社交術としてはうってつけだ。先輩が後輩に食事をごちそうしたり、友人同士で順番にご飯をおごったりする慣行も、副作用がなくはないものの、人間関係を密接にし持続させる、「一緒にする」技術の一種だ。
日本では、知らない人とすぐに打ち解けられるそういう文化がないため、相手と親しくなるのに時間がかかるほうだ。しょっちゅう顔を合わせていても、ぎこちない関係が何年も続くこともある。おひとりさま主義が根づいている日本で、知らない人とざっくばらんに打ち解ける社会性を身につけるのは容易ではない。
日本ではどのように個人主義と集団主義が共存しているのか?
このように個人主義的な性向が顕著な日本社会だが、公的な領域では正反対に、国家や集団の目標を個人の価値観より優先する集団主義が強く表れる。たとえば、個人的な趣味や好みは尊重されるべき、という考え方は存在するものの、国の行事のためなら個人的な犠牲もやむを得ない、との考え方も強い。ある意味、一人の人間の内面に個人主義と集団主義が共存しているように見えて、戸惑うこともある。
個人主義は、国家や共同体など集団の効用に優先して、個人の理性的な判断や、信念の個別性を認めるという考え方だ。これは民主主義の根幹でもある。民主主義は、すべての人の意見を平等に尊重しなければならないという個人主義的思想を前提に成り立つものだからだ。ところが、日本社会における民主主義の成立過程では、そうした個人主義的思想に対する熟考がなされなかった。太平洋戦争に敗れた日本を一時期占領、統治していた連合国最高司令官総司令部(GHQ)によって、民主主義的な理念を盛り込んだ憲法が作られたからだ。つまり日本社会における民主主義は、みずからつかみ取った成果というより、「上から与えられた贈り物」だったのだ。
日本社会の個人主義が不完全な思想のように思えるのはそのせいかもしれない。日本で個人主義的な考え方が抵抗なく受け入れられるのは、個々人の考えや信念を尊重するという「思想」の次元ではなく、全的に個人の好き嫌いが基準となる「消費」の次元においてだ。公的な領域での個人主義は集団の和を乱す未熟な態度とされるが、一方で、私的な領域での個人主義は各自の好みや幸福追求権に関連する、また別の次元の話と考えるのだ。市民社会の経験は不十分だが消費社会的な面では高度に発達した、日本社会の特徴とも言える。