「『やなせ先生が提案してくれるのなら、ぜひやろう』と皆が言いました」
さっそく実施団体の住民組織「まちづくり委員会」を結成し、徳久さんは副会長に就任した。
「商売をしている人が中心になりました。私はクリーニング屋。会長になった西村太利さんは家具屋さん。民泊をした時のリーダーです。野球が大好きで、非常に真面目。体育協会の仕事をはじめとして、後免町のことならば、様々な世話を焼いてくれる人です」
毎日郵便受けを確認に行ったが…
ただ、事業名は企画書にあった「ごめんなさいハガキ」ではなく、「ハガキでごめんなさい」に変えた。「おそらく市役所が付けた名称だと思うのですが、語呂が悪いですし、なんか違うなぁという違和感がありました。私が勝手に変えてしまいました」。徳久さんは笑う。
若い頃に国語の教員として教鞭をとった徳久さんは、妻の実家のクリーニング業を継ぐために退職したが、近年はまた高校の国語科講師として教えている。「言葉」には鋭敏な感覚を持っていた。
徳久さんと西村さんは、すぐにポスターを作成して、報道機関に「コンクールをやります」と発表した。
年内に募集を開始。事務局は西村さんが館長をしている地元の公民館に置いた。職員がいるわけではない。西村さんが毎日郵便受けを確認に行った。
しかし、ほとんど応募がなかった。
「もうすぐ締め切りになるというのに、50通ほどしか届きませんでした。西村さんと2人で『どうしよう、どうしよう』と言うだけで、なすすべもありません。これはもう、東京のやなせスタジオへ行って、先生に土下座しないといけないと思っていました」
ハガキがどんどん届き、最多の応募枚数に!
そんな時、一本の記事が出た。
「共同通信が配信してくれたのです。面白おかしく書いたわけではなく、『高知県に後免町というところがあって、言いそびれたごめんなさいをハガキに書いて送ってもらう取り組みをしている』という紹介でした。これが全国の地方紙に掲載されました。Yahoo!ニュースでも流れて、トップページで扱われたのです」
ハガキがどんどん届いた。最終的に2676通。2024年度で第21回を迎える催しとしては最多の応募枚数になった。
やなせさんは第1回から第5回までの審査委員長を務めた。寄せられたハガキは、まちづくり委員会の選考委員で30通ほどに絞り込み、やなせスタジオへ送る。これにやなせさんが目を通して最終選考を行った。「当初は大賞、優秀賞だけだったのに、第2回から先生が佳作を作ってくれました」。それだけ心に響くハガキが多く、選びにくかったのかもしれない。