後免町の由来とは?
それにしても、なぜ「ごめん」などという名前の町ができたのか。これには歴史的な経緯がある。
江戸時代の初期、土佐藩の奉行職だった野中兼山が開いたのが始まりだ。
執政として藩政改革に取り組んだ兼山は、高知県東部を流れる物部川に堰を建造した。そこから舟入(ふないれ)川という人工河川を掘削し、高知城下に至る舟運ルートを整備した。併せて新田開発にも活用した。
「兼山が開発を進める前、この辺りは何もない荒れ地でした。舟入川は高知城下までの距離が長いので、途中に休憩・宿泊するところがあった方が便利だということになり、商売をしたり、住居を構えたりする者には、租税などが免除されました。このため『御免町』と名づけられたのです。最初は『後免』ではなく『御免』と書かれました」と、徳久さんが解説する。
交通の要衝だった後免の町
後免町の発展は、幕藩体制が崩壊し、舟運が廃れた後も続いた。
旧土佐電気鉄道(現とさでん交通)が1911年、高知市の「はりまや橋」から「後免町」方面に路面電車を開通させた。現在のJR四国が運行する土讃線も建設され、町内には「後免」駅もできた。
また、後免の町から東の安芸市方面へは、旧土佐電気鉄道が安芸線を走らせ(廃線)、2002年には安芸市を通過して、奈半利(なはり)町へ向かう第三セクター「土佐くろしお鉄道」の「ごめん・なはり線」が開業した。
「交通の要衝だった後免の町は栄え、かつての商店街は高知市に次ぐ規模でした。今はさびれてシャッター通りになってしまいましたが、昭和の頃は買物に来る人で大変な賑わいでした」と徳久さんが話す。
自治体の名称も1959年に5町村の合併で「南国市」になるまでは「後免町」(ごめんちょう)だった。今も商店街エリアの住居表示は「後免町」(ごめんまち)1~4丁目だ。やなせさんが通った小学校は、今でも「後免野田小学校」という名称である。
こうしたことから「後免の町」は高知県内で広く知られ、特に高知市から東に住む人々にとっては親しみのある商業地だった。
「地元の人にとっては特に意識することもない、普通の地名だったのです」と徳久さんは語る。
やなせさんから『ごめんなさいハガキ』の提案
2003年9月25日、市役所から徳久さんのもとに「企画書」が届いた。「(仮称)『ごめんなさいハガキ』事業実施募集要綱(案)」とタイトルが付けられていた。
やなせさんから事業の「提案」があったというのだ。
「目的」には次のような内容が書かれていた。