『二度のお別れ』でデビューをして40年超。黒川博行が自らの作家生活を振り返ったエッセイ集『そらそうや』が話題を集めている。ここでは一部抜粋し、大阪で過ごした青春時代を振り返る。(全2回の前編/続きを読む)
◆◆◆
パチンコで勝った三千円で、ジャンジャン横丁へ
いまから四十余年前、梅田の地下街でひっかけた名も知らぬ女子に童貞を捧げた若き美少年だったころ、京都の美大を受験してみごと落選したわたしは天王寺の美術系予備校に通っていた。鉛筆デッサン、石膏デッサン、色彩構成、立体構成と、講師にいわれるままに課題をこなし、授業が終わると、お友だちの若山と連れだってパチンコへ行く。
わたしはパチンコの打ち筋がきれいで玉が“天”のあたりに集まるのだが、めったに勝つことがない。若山はバラバラに打って、なぜかしらん、よく終了した。当時、終了すると三千円くらいにはなったから、歩いてジャンジャン横丁へ行き、勝ったほう(ほとんど若山)の奢りで串カツを食った。“ソース二度づけお断り”の串カツは、ひとり七、八百円もあればゲップが出るほど食えた。
将棋倶楽部やビンゴゲーム屋、近くには弓道場も
そうして腹ごなしに横丁を歩き、将棋倶楽部やビンゴゲーム屋を見物する。ビンゴは大きな透明タンクに入れられたボール(たぶんピンポン玉に色を塗り、数字を書いてあった)が下からの空気に吹きあげられ、透明のチューブに落ちて、ゆっくり横に転がっていく。それをマイク片手の年増のおねえさんが読みとって、ニジュウイチバーン、ヨンジュウハチバーンと、独特の口調で読みあげる。ビンゴの商品は憶えていないが、たくさんの客が集まっていたところをみると、どこかで換金していたのかもしれない。なかなかに風情のある光景ではあった。
ビンゴ屋の近くには弓道場もあった。そこにも看板娘のおばさんがいて、矢が的に当たると商品をくれる。一度、試してみたが、素人が和弓を射てもまともに飛びはしない。弓とアーチェリーはまったくの別物だった。
ねじり鉢巻きのおじさんたち
あのころのジャンジャン横丁を行き交っていたのは、角刈りにねじり鉢巻き、V首長袖シャツにニッカボッカー、地下足袋や長靴といったおじさんたちで、ワンカップ酒を手に煙草を吸っていたりすると、もうめちゃくちゃ街の風景に馴染んでいた。わたしが美大で四年間、鉄筋工のバイトをしたのはその影響があったのかもしれない。
動物園にもよく行った。北園、南園をひとめぐりし、休憩所でかき氷を食う。園内にはその日の仕事にあぶれたおじさんたちがいて、芝生で昼寝したりしていた。若山とわたしがそばに座ると、おじさんは顔だけこちらに向けて、「にいちゃん、学校サボッたらあかんやろ」