町工場を営む家の次女として生まれ、当時32歳の主婦だった諏訪貴子さん(53)は、先代である父が亡くなったことをきっかけに、突然2代目社長に就任することになった。

 まだ女性経営者の数が少ない時代、冷たい視線に晒されながらも経営難を乗り越えて、後に『町工場の娘』(日経BP)という本を書いた諏訪さんは一体どんな人物なのか。

 ここでは、父・保雄さんとの関係や幼くして亡くなった兄の存在、突然の社長就任にあたっての当時の心境などを詳しく伺った。(全2回の1回目/続きを読む

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諏訪貴子さん ©山元茂樹/文藝春秋

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白血病を発症した兄のために町工場を創業した父

――諏訪さんが代表を務める町工場「ダイヤ精機」は、諏訪さんのお父さんが立ち上げた会社だそうですね。

諏訪貴子さん(以下、諏訪) はい。サラリーマンだった父はゲージ工場を営む義理の兄から機械2台と職人3人を譲り受け、高度経済成長期のまっただ中にダイヤ精機を創業しました。3歳で白血病を発症した兄の治療のために、お金が必要だったからです。父の努力のかいあってダイヤ精機は短期間で業績をあげて、兄も当時の最新の治療を受けることができました。しかし、1967年に6歳で亡くなりました。私が生まれたのはその後です。

――書籍では、お父さんは貴子さんが生まれたとき「女の子か」とショックを受け、病院に一度も顔を見せなかった、という衝撃的なエピソードが書かれていました。

諏訪 当時は、女性は結婚して子どもを産んだら家庭に入るのが当たり前とされた時代でした。だから、生まれたのが女の子だと知って、後継者を望んでいた父がひどく落胆したのは理解できます。

©山元茂樹/文藝春秋

 でも生まれたときのエピソードが気にならないくらい、父からはたくさんの愛を受け取りました。仕事が忙しくて一緒にいる時間は多くはありませんでしたが、その分一緒にいる時間は全力で愛情を注いでくれたというか。私を車で送迎してくれるとき、信号が赤になった瞬間にすかさず「たかちゃんたかちゃん!」といってベタベタしてくるような人でしたね(笑)。また、私が友人関係のトラブルに巻き込まれたときは、何も聞かずに私の味方になってくれました。

 愛情表現が凄すぎて、「めんどくさい!」と思う時もありましたけど(笑)。いつも優しくて、面白くて、かっこよくて、自慢の父でした。