町工場を営む家の次女として生まれ、当時32歳の主婦だった諏訪貴子さん(53)は、先代である父が亡くなったことをきっかけに、突然2代目社長に就任することになった。
まだ女性経営者の数が少ない時代、冷たい視線に晒されながらも経営難を乗り越えて、後に『町工場の娘』(日経BP)という本を書いた諏訪さんは一体どんな人物なのか。
ここでは、突然の社長就任に対する家族の反応、支えてくれた息子さんとの関係、パニック障害を患ってしまったときのことについて詳しく伺った。(全2回の2回目/最初から読む)
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若手からベテランまで、「人が辞めない最強の職人集団」
――貴子さんが経営立て直しのため、周囲と衝突しながらもどんどん改革を推し進めていった結果、ダイヤ精機の技術はミクロン単位の金属加工技術で国内トップクラスと言われています。また、人事や採用も改革を進めたところ、中小企業には珍しい「若手社員が多い町工場」としても有名になったそうですね。
諏訪貴子さん(以下、諏訪) 現在のダイヤ精機には、30人弱の従業員がいます。そのほとんどが、20代から40代です。一方で、創業時から力を貸し続けてくれている、70代のベテラン従業員もいます。私が社長に就任した当初は「女に経営ができるか」と言っていた人も、今では「俺と社長は(何でも言い合える)家族みたいなもんだから」と言ってくれています(笑)。
若手からベテランまで、「人が辞めない最強の職人集団」としてメディアに取り上げられることも増えてきましたね。ありがたいことに、2代目社長の成功例として、講演をご依頼いただく機会も増えています。
大事なことに気づかせてくれたリーマンショック
――2004年に諏訪さんが社長に就任してから、今年で20年。これまでで一番「大変だった」と思うことを教えていただけますか。
諏訪 うーん、実はあんまり大変だったと思うことはないんですよね。振り返ると、「当時の私、かわいそう」と思うことだらけです(笑)。でも、その瞬間は大変だと思っていないというか。危機を乗り切るために必死で、大変なことに気付かないんですよね。
例えばリーマンショックのとき、これまでに経験したことのないような赤字を出してしまいました。少しでも負担を減らすために、私の給与は全てカットしました。状況だけを見ると、私の社長人生の中でも特に大変な時期だったと思います。それでも、会社に行くことが苦じゃなかったんですよね。報酬がなくても、やりたい仕事がある。一緒に頑張りたい仲間がいる。それに気づかせてくれたリーマンショックには、むしろ感謝しているんですよ。