「2代目になることを決心した」という女性の声も届いて
――息子さんの近況を教えていただけますか?
諏訪 息子は仕事柄、長期間家を空けることが多いんです。いつ帰れるのか分からないことも少なくありません。そのためか働き始めたばかりの頃は、朝出かけるときは「いってきます」とハグをしてくれていました。
仕事に慣れてきたからか、最近はハグをしてくれることが少なくなって寂しいですね(笑)。現在は、15人ほどのチームをまとめるマネージャーとして日々頑張っているようです。仕事で楽しかったこと、大変だったこと、マネージャーならではの悩みややりがいなど、たくさん話をしてくれるんですよ。その時間が、今の私の楽しみです。
――紆余曲折ありながらも、独自の視点で経営を立て直し、ダイヤ精機のみならず、諏訪さんの人生そのものもたくさんのメディアに取り上げられました。
諏訪 初めて書いた著書『町工場の娘 主婦から社長になった2代目の10年戦争』は、2017年にNHKでドラマ化もされました。私の活動をきっかけに、「2代目になることを決心した」という女性の声も届いてきて、本当に嬉しい限りです。
でも、同時に「諏訪さんが強い人だからできたんでしょう」「私みたいな普通の人には無理」という声も届いてきて。実際は、全然そんなことないんですけどね。実は私、45歳のときにパニック障害を患って、仕事が全くできなかった時期があるんです。
パニック障害で復帰まで半年がかりに
――そのときの状況を教えていただけますか?
諏訪 その当時は、社長業をしながら年間100本以上の講演をしていました。それでも、大変だとは思わなくて。なんなら、もっとできる! と思っていました。
でも、私は幼稚園の頃に先生を「貴子さんは全然喋らないから、何を考えているか分からない」と悩ませてしまったくらい、もともと大人しくて引っ込み思案な性格なんです。社長になって人前に出ることが多くなって、克服したかと思っていたけど、本来の性質は変わっていません。だから、たくさんの人の前に出る講演会が、知らず知らずのうちにストレスになっていたようです。
ある講演の最中、急に目の前がグラグラし始めて、話しながら倒れそうになってしまいました。その場はなんとか凌いだのですが、それから講演に出ようとすると、うまく息が吸えなくなってしまって。しばらくは原因が分からず、「こんなに苦しいなら、死んだ方が楽かもしれない」と思い詰めた時期もありました。何軒か病院を転々とした後、心療内科でパニック障害だと診断されて。そこから3ヶ月ほどは完全に仕事をストップして、復帰するまでは半年かかりました。
――大変だったのですね……。